信濃追分に「堀辰雄記念館」がある、名前は聞いてはいたがやっと訪問出来た。

高速の「小牧インター」から東名高速に入り途中で中央道へ。飯田、駒ヶ根、岡谷を経由し、約3時間余り。

岡谷ICから20号線、新和田トンネル等を経由し142号線で立科、ここから県道40号線で小諸まで。小諸から18号線(中山道)に入り、御代田経由、浅間山を左手に見ながら、信濃追分へ。

何しろ、雪が心配で、私の住む処では雪が降ったりしただけでも、1cmほど積もれば正に大渋滞。長野の知人に、「あんたん地ではクルマを買うとチェーンが付いてこないん?」と笑われた。今回の装備は、2tジャッキ、剣先スコップ、軍手等々。が、行ってみれば雪は全くなく、私はやっぱり日頃の行いが良いんだ!と大安心。さて、今回ここが旅のメインの「堀辰雄記念館」訪問。

 

本日の目的が此処。すぐ左に「売り別荘用地」が。買いたい衝動が。

 

 

 

 別荘から新居に移り、 

 此処でお亡くなりになったのでしょうか             堀さんが特注で製造したランプだそうです。

 

左側の白壁の小さな建物が堀さん設計の書庫、右側が住居。

 

  

  一番最後になりましたが、受付です      現在、軽井沢高原文庫内にある別荘の模型

                        このベランダで奥様と撮られた写真が有名

 

 受付でお話をしていると、浄瑠璃寺さんとは交流があるらしく、例の「浄瑠璃寺の春」に出て来る、女子中学生は住職さんの伯母さんらしい。大阪へ嫁に行き90歳以上の長寿を保ったお話をし、「一度住職さんにその少女のその後を随筆にでもして貰ったら」との要請を致しました。多分、昭和18年の話ですので、男女共学の新制中学校ではなく、当時は女学校だったのでは?と思うのですが。また、作品中では確か長靴を履いていた気がするのですが、記憶は定かではありません。多分、平成は勿論ひょっとすると令和の時代も生きておられたのでは?住職さんのお話では実際にも話好きな、作品の通りの女性だったとか。当時、多分15歳程とすると多分昭和3年頃の生まれ(1928年?)、これに90歳をプラスすると2018年、多分平成・令和の時代まで生きておられたのでは?平安時代建立の由緒あるお寺なので、多分大阪のお寺に嫁いだのでは。と、私の迷想は止まりません。

(私の現役時代は、大阪営業所員が名古屋に来ると、雨の日は何と黒いゴムの長靴で新幹線に乗って来ていました。当時は女子中学も、大阪では平然と黒のゴムの長靴を履いて雨の日は通学していたとか。)

 野村英夫少年は、早稲田の仏法学部で学び、ここで堀辰雄さんの薫陶に触れたらしい。東京でも勿論、様々な文人・詩人に触れ、立原道造、三好達治、津村信夫、加藤周一、深沢紅子、中沢真一郎等々、更に我が地方の作家、杉浦民平さんにまでに知己を得た。堀さんと軽井沢の別荘で同居したり、油屋が火事で全焼時は、一緒に川端康成さんや室生犀星さんの別荘に避難したりとか。この様な輝く程の知己を得れば当然文学の道に進みそうです。が、ある事情でカトリックの洗礼を受け詩作に走り、堀辰雄さんとは正に親戚同様の知遇。軽井沢の川端康成さんの別荘で、冬季同居しながら「風立ちぬ」の製作過程に立ち会ったとか。この環境では更に上に、と思えるたのだが、残念ながら肺結核で昭和23年死去、31歳。全集とは言っても全一巻、日記や信書は逸散、わずかに妹さんが一部を保有するのみ。

 

旧軽にある、室生犀星さんの旧別荘、冬季は休館中。

 

南軽井沢にある、旧堀辰雄別荘?、軽井沢高原文庫も冬季休業中。

多分これが堀辰雄さんの移築された別荘と思うのですが。

左側には野上弥栄子さんの別荘が移築されています。