イメージ 1
 
 千石船の難破によって生涯「デラシネ」となった、「音吉」の生地、愛知県知多郡美浜町小野浦に立つ、案内板。
「ヲワリのツタゴオリ(尾張の知多郡)」(日本聖書協会への原文のまま)、今の知多郡出身の船乗りたちの故郷である。プロシア生まれの伝道師兼外交官であった「カール・フリードリッヒ・アウグスト・ギュッラフ」が音吉たち、小野浦出身の破船し生き残った三人の船乗りの協力を得て世界初の「和訳聖書」がマカオで完成された。彼らによって和訳された「ヨハネ伝福音書」は日本に七冊、海外に九冊あることが知られている。「ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル」で始まるとされます。
 
 
イメージ 2
三吉碑近くの、国道沿いにある案内板。
 
当時上海の黄埔江に有った「噸船」(アヘンの貯蔵船)
 
 マカオから、1840年頃上海に移った音吉はイギリスの商社、「デント商会」に勤め、「とん船」と呼ばれる「アヘン貯蔵船」からアヘンを陸揚げする仕事をしていたらしい。そのデント商会の漢字表記は何と音吉たちが乗っていた宝順丸に因み「宝順洋行」であったとか。
が、中国、当時の「清」、との貿易赤字に悩む英国がインドなどからの輸出品として採用したのが、「阿片」です。違法貿易の末の「アヘン戦争」では、中国の領土を更に割譲させ、更に植民地化を進めようとしていました。
音吉は、そのイギリスに対抗する「太平天国」に呼応した「上海小刀会」に対するイギリス側の戦闘員として何度も参加し、身の危険を感じたらしい。上海に移って約20年後の1860年頃には、妻の故郷のシンガポールへ移住する事になります。後に、ここで、ヨーロッパに派遣される幕府の使節の侍たちと邂逅することとなります。
 「太平天国」の書籍は日本でも多数発刊されており、他現在私の所有している「上海小刀会起義史」なる冊子も有りますが、こちらは現代中国語の簡体字なので、私には半分も理解できません。冊子の写真や地図から想像したり、冊子の漢字から類推したりするばかりです。 なお、デント商会は1860年頃の不況で倒産し、同業のジャーディン・マセソン商会は今も存在します。
 
イメージ 3
           現在の三吉(音吉、岩吉、久吉)記念碑。
 
イメージ 4
  1961年(昭和36年)4月の同上記念碑建立の記念式典の様子。中央は当時美浜町町長の森田氏、
   左は当時のドイツ大使 ビルヘルム(ウィルヘルム)・ハース氏。
 
 処で、この大使、日本でのもう一つの記念式典にも出席しています。1960年11月に、べーグナー神戸総領事と共に、第一次世界大戦の青島(チンタオ)から収容したドイツ人捕虜の収容所(四国・板東俘虜収容所、所長:松江豊寿陸軍大佐)での慰霊碑発見の報道に際し、献花を行い、満州からの引揚者であった墓守をしていた婦人にお礼を伝えています。坂東は四国巡礼第一番札所で、日本で最初に「第九」が演奏されたとされる場所です。
 
イメージ 5
    中央が「音吉」の身内とされる、山本豊治郎さん。野間で山本屋旅館を営んでいます。
     左の女性が船長の樋口さんの子孫、右の男性は「久吉」さんの子孫と思うのですが?
    (1961年の写真ですから、もう代は変わっているでしょう。)
    後記:今現在、残念ながら「山本旅館」は廃業、敷地のみが残っています。
       小野浦にある菩提寺・良参寺には小さな墓石が並びます、難破し消息不明と
       なった時点で造られたものか。生き残ったのは岩吉、久吉、音吉の3人です。
       また、船長の実家である樋口家は、今現在無住となり「記念館」となっているようです。
 
 アメリカ・オレゴン州フラッタリー岬付近に漂着し、インディアンの奴隷となりながらも、日本との開国を望むイギリスに保護され、ハワイ経由・ロンドン、マカオ、上海、と彷徨った音吉は、モリソン号の日本交渉時の通訳、”中国人・林阿トウ”を名乗ったり、上海の旧イギリス大使館近くに豪邸を構え、イギリス人の妻を娶りイギリス国籍となった音吉は、何組もの日本人漂流者たちを自宅で保護、彼らの日本への帰国に尽力もしました。上海で、ウィリアム・マシュー・オトソン?と名乗った音吉は、20年近く勤めたデント商会では、かなりの役職にあったようです?
最後は、シンガポールに寄港した訪欧武士団に面会を果たし、自宅にも招待をし、武士たちの日記に「土人の妻」と表記された、二人目の妻の故郷・シンガポールで1864年頃?没したようです。シンガポールでは「口入れ屋」(職業あっせん業)を営んでいたとされます。
結果的には、日本人初の世界一周の偉業を果たしたようです。
近年「Otoson」銘の墓石がシンガポールで発見されたようです。「音吉」⇒「音さん」⇒「オトサン」から「Otoson」へと名前も変わった「音吉」の墓石でしょうか。愛称、ハッピー・サウンド(ハッピー:吉、サウンド:音)の消息はここで途絶えます。
さて、わずか14歳で海外へ投げ出され、最後まで日本への上陸が叶わなかった音吉に代わり(最初の日本訪問時は船上で武士たちに土下座し、頭も上げられなかったとか。)、明治になって御子息がシンガポールから日本の戸籍を申請し受理されたようです。音吉の子息、ウィリアム・オトソンは横浜で日本戸籍復帰を果たし、山本音吉(乙吉)を名乗り、その後台湾へ移住、以降消息不明。
  私は、この横浜時代に、御子息が故郷小野浦に連絡を取ったのかも?と想像はするのですが、証左は出ていないようです。
現在の美浜町小野浦は本来、港もない砂浜の広がる寒村で、海苔養殖が始まるまでは貧乏村で通っていたようです。昨今は海水浴場としても有名となり、さすがにきれいな町並みが海岸線に沿って並びます。
 さて、音吉と同様に漁師の倅の私は、家業も継がず、遊び呆け、何とか我慢してサラリーマンになったものの結局は続かず、ついには海外への活路を求め「スペイン語」なぞを繰り、各地を転々とする事となりました。が、デラシネとはならず、今は平穏に「年金生活者」と成り下がっています。いつかは、また海外へ!と思う毎日ですが、それは何時の事でしょうか。
が、やはり漁師の倅の性格はしっかりと受け継いだらしく、現在の残金¥13。銀行に行けば良いようなものですが、「宵越しの金は持たねえ。」の常で、何とか暫く女房にすがり過ごします。