6月ももう終わりです。
色んなハプニングやままならぬことがあるのが人の生活で
その生活に介入する対人援助という仕事もまたままならぬことが
沢山起こるのが宿命。
すごーく濃ゆい一週間。
モニタリングを思わず「モニタリンダ」と書き間違うという( *´艸`)
即興で作った割にはこの替え歌ええやん♪
自画自賛してインスタにも思わずあげてしまいました。
リンダリンダ♪ モニタリンダ♪
笑い飛ばしていきましょ♪
インスタグラムの投稿はこちら。
小学校1年生の頃は不登校ぎみの一年でした。
学校は楽しくなく、一番安心できたのは
家でひいばあちゃんと折り紙を折ったり本を読んでいる時でした。
それなりに放課後一緒に遊ぶ友達もいたのですが、そんなに楽しいものではありませんでした。
というよりはむしろ惨めな思いをすることが多かった。
その理由は我が家のルール。
他の子はお小遣いを持っていて(当時の小学校低学年で50円~100円。それで駄菓子やアイスが2~3個買えたりしました)
駄菓子屋さんに入っておやつを買っている。
「こまりちゃんは買わんの?」
「買わんでもお店一緒に入ってきいや~」
そう言ってくれるお友達もいました。
ある日、母親に勇気を振り絞って聞いてみました。
「よその子はお小遣いを持っている。私も遊びに行くときは欲しい。」
そうすると母親は怖い顔で言いました。
「おやつは子どもが買い食いするものじゃない。家に買って置いてある。子どもが小遣いなんか持つもんじゃない。」
「あんたはお金を持ってないんだから一緒に店に入ったらいかん。お金も持たずに店に入るのは泥棒と一緒。」
「よその家はよその家。うちはうち。」
一蹴(-_-;)
言いつけを守って最初のうちは駄菓子屋の前で一人待っていることもありました。
待つ間の時間の長かったこと。なんとも身の置き所のない時間です。
私だけ…。
そうこうするうちに
「お母さんがね、こまりちゃんにもお菓子買ってかまんていうた。好きなが選びや~。」
そう言ってくれるお友達が現れます。
欲しいのでお言葉に甘えてチョコバット(¥10)とか買ってもらう。
好意が単純に嬉しかったので帰ってから母親にこのことを言うのです。
すると…
「人様にお菓子を買うてもらうもんじゃない!」
と大目玉を食らいました。
小遣いはあげません。
あんたは黙ってみてなさい。
奢ってもらうのは言語道断!
それが我が家(母親)の方針でした。
時折、可哀想に思ったのか、ひいばあちゃんやおばあちゃんがお小遣いをくれることもあり、
また母親には内緒でコッソリ貰ったりして
それを「やりくり」してお友達と駄菓子屋でお菓子を買いました。
でも、狭い子供の行動範囲なもんで
うっかり買い食いが母親に発見されることもあり
遊んで満足して帰ると
思わぬタイミングで
「あんた、今日はどこへ行った? ○○の前で見かけたけど。」
と問い詰められ、大目玉を食らうのです。
そしてひいばあちゃんも一緒に叱られる…。
「子どもがあの人(父親のこと)みたいになってもいいということ?」
それが叱る時の母親の口癖でした。
ひいばあちゃんが子どもの頃から甘やかして多額の小遣いを与えたり
学費から勝手に使ったのを見過ごして代わりに支払ったりしていたから
父親は放蕩息子になったのだというのが母親の言い分。
そして子どもにはお金は絶対持たせない。持たなければ放蕩なんてしない。というのが母親の理屈。
ある意味正しいのかもしれません。
でも、今思い出しても
結構無茶なルールやと思う。
お金って使わないと上手な使い方も身につかないと思う。
使わない、使わせない、が本当に正しいことなのかどうか…。
私は自慢ではありませんが(自慢になりませんが)
万引きは一度もしたことがありません。
一回ぐらい万引きして捕まってしまえば母親も考えを変えてくれたかな。
なんてことを思っても時は戻りません。
「正しく」育てられたのかもしれませんが
惨めな思い出と
母親への「隠し事」と
やっぱり私の言うことを聞いてくれなかったというルサンチマンを
増やしながら
私は育っていきました。
学校は楽しくなく、一番安心できたのは
家でひいばあちゃんと折り紙を折ったり本を読んでいる時でした。
それなりに放課後一緒に遊ぶ友達もいたのですが、そんなに楽しいものではありませんでした。
というよりはむしろ惨めな思いをすることが多かった。
その理由は我が家のルール。
他の子はお小遣いを持っていて(当時の小学校低学年で50円~100円。それで駄菓子やアイスが2~3個買えたりしました)
駄菓子屋さんに入っておやつを買っている。
「こまりちゃんは買わんの?」
「買わんでもお店一緒に入ってきいや~」
そう言ってくれるお友達もいました。
ある日、母親に勇気を振り絞って聞いてみました。
「よその子はお小遣いを持っている。私も遊びに行くときは欲しい。」
そうすると母親は怖い顔で言いました。
「おやつは子どもが買い食いするものじゃない。家に買って置いてある。子どもが小遣いなんか持つもんじゃない。」
「あんたはお金を持ってないんだから一緒に店に入ったらいかん。お金も持たずに店に入るのは泥棒と一緒。」
「よその家はよその家。うちはうち。」
一蹴(-_-;)
言いつけを守って最初のうちは駄菓子屋の前で一人待っていることもありました。
待つ間の時間の長かったこと。なんとも身の置き所のない時間です。
私だけ…。
そうこうするうちに
「お母さんがね、こまりちゃんにもお菓子買ってかまんていうた。好きなが選びや~。」
そう言ってくれるお友達が現れます。
欲しいのでお言葉に甘えてチョコバット(¥10)とか買ってもらう。
好意が単純に嬉しかったので帰ってから母親にこのことを言うのです。
すると…
「人様にお菓子を買うてもらうもんじゃない!」
と大目玉を食らいました。
小遣いはあげません。
あんたは黙ってみてなさい。
奢ってもらうのは言語道断!
それが我が家(母親)の方針でした。
時折、可哀想に思ったのか、ひいばあちゃんやおばあちゃんがお小遣いをくれることもあり、
また母親には内緒でコッソリ貰ったりして
それを「やりくり」してお友達と駄菓子屋でお菓子を買いました。
でも、狭い子供の行動範囲なもんで
うっかり買い食いが母親に発見されることもあり
遊んで満足して帰ると
思わぬタイミングで
「あんた、今日はどこへ行った? ○○の前で見かけたけど。」
と問い詰められ、大目玉を食らうのです。
そしてひいばあちゃんも一緒に叱られる…。
「子どもがあの人(父親のこと)みたいになってもいいということ?」
それが叱る時の母親の口癖でした。
ひいばあちゃんが子どもの頃から甘やかして多額の小遣いを与えたり
学費から勝手に使ったのを見過ごして代わりに支払ったりしていたから
父親は放蕩息子になったのだというのが母親の言い分。
そして子どもにはお金は絶対持たせない。持たなければ放蕩なんてしない。というのが母親の理屈。
ある意味正しいのかもしれません。
でも、今思い出しても
結構無茶なルールやと思う。
お金って使わないと上手な使い方も身につかないと思う。
使わない、使わせない、が本当に正しいことなのかどうか…。
私は自慢ではありませんが(自慢になりませんが)
万引きは一度もしたことがありません。
一回ぐらい万引きして捕まってしまえば母親も考えを変えてくれたかな。
なんてことを思っても時は戻りません。
「正しく」育てられたのかもしれませんが
惨めな思い出と
母親への「隠し事」と
やっぱり私の言うことを聞いてくれなかったというルサンチマンを
増やしながら
私は育っていきました。
昨日の朝は
自分自身の「許せない」ポイントについて
ちょっとダークな私がいる、とブログに書きました。
昨日の記事はこちら。「暗黒面」
昨日は以前から参加してみたかった研修があり
初めてだったのですが
えいやっ!と
参加してきました。
今まで考えてきたこと
世の中のこと、対人援助の現場についての私のものの見方
うん。それでいいんだ。大丈夫。と思えることと
ここはもうちょっとだなあ。
もう少し別の考えも、あるかも。
こういうパターンではちょっと判断が偏りがちかも。
そういう気づきもたくさんありました。
学ぶ⇒気づく という営みはエンドレス。
分かったつもりがまだまだだったり
見当違いだったりもする
自分の発した言葉やとった態度は
相手によって
どう解釈されるかは
実は分からない。
私が聴いてほしいようには
人は話を聴いてくれない
ということも当然ありうる。
そうなんだよなあ。
そして今日。月曜日の現場。
昨日研修受けておいて
本当に良かった。じゃないと冷静に見えなかったよなあ、と思うような局面。
援助職にとって都合の良いこと、耳障りの良いことを言ったりしたりする人だけが
援助の対象者ではない。
この言葉は胸にずう~んときた。
だとすれば
私は
何をどう見るのか?
どう話すのか?
そして
対人援助の関わりは
目の前のクライエントにとって
都合の良いこと、耳障りの良いことだけを言ったりしたりすることではない
とも思うのです。
人生における
その人や家族に起こった出来事に
その人たち自信が持てる力を使って向き合えるようにする
なんだかややこしいけど
代わりに問題解決をしたり、課題をなきものにしたり、ソッポ向かせたりすることではないのです。
このなんだかややこしいことを続ける限り
学び⇒気づきは続きます。
自分自身の「許せない」ポイントについて
ちょっとダークな私がいる、とブログに書きました。
昨日の記事はこちら。「暗黒面」
昨日は以前から参加してみたかった研修があり
初めてだったのですが
えいやっ!と
参加してきました。
今まで考えてきたこと
世の中のこと、対人援助の現場についての私のものの見方
うん。それでいいんだ。大丈夫。と思えることと
ここはもうちょっとだなあ。
もう少し別の考えも、あるかも。
こういうパターンではちょっと判断が偏りがちかも。
そういう気づきもたくさんありました。
学ぶ⇒気づく という営みはエンドレス。
分かったつもりがまだまだだったり
見当違いだったりもする
自分の発した言葉やとった態度は
相手によって
どう解釈されるかは
実は分からない。
私が聴いてほしいようには
人は話を聴いてくれない
ということも当然ありうる。
そうなんだよなあ。
そして今日。月曜日の現場。
昨日研修受けておいて
本当に良かった。じゃないと冷静に見えなかったよなあ、と思うような局面。
援助職にとって都合の良いこと、耳障りの良いことを言ったりしたりする人だけが
援助の対象者ではない。
この言葉は胸にずう~んときた。
だとすれば
私は
何をどう見るのか?
どう話すのか?
そして
対人援助の関わりは
目の前のクライエントにとって
都合の良いこと、耳障りの良いことだけを言ったりしたりすることではない
とも思うのです。
人生における
その人や家族に起こった出来事に
その人たち自信が持てる力を使って向き合えるようにする
なんだかややこしいけど
代わりに問題解決をしたり、課題をなきものにしたり、ソッポ向かせたりすることではないのです。
このなんだかややこしいことを続ける限り
学び⇒気づきは続きます。
私の中の正義。
愛情がある
一生懸命
熱心
なら
何をしてもかまわない
関わり方が不味くてもかまわない
ということを許さない
と言う正義。
母親からの過干渉や厳しい躾、甘えが許されず、受け止められた実感が持てなかったことを私は今でも恨んでいたり許せなかったりします。
対人援助の仕事をしているからか
熱心だけど的を外しているのに気付かない援助者や
自己満足、自己完結で当事者の力を奪うような援助職に出逢うと
間違いをわからせてやりたい
という思いに駆られます。
そう、私の中の正しさを押しつけてやりたい
認めさせてやりたい
そう思ってしまう。
だから
時に研修や事例検討の場でも
言葉や態度が刺々しくなる。
自分の中に
すっごい矛盾をはらんでいる。
暗黒面が
私にはあるのです。
パレートの法則という法則があるらしい。
そのことについてはあまり詳しく知らないのであるらしい、と言うにとどめておきます。
以前、ソーシャルワークのお師匠様にこんな法則があって、面白いことに社会の色んなことがこの法則で説明できたりするんで知っておいても損はないよ、と教えられました。
当時、研修企画や人材育成のミッションもあったので師匠様が例えに出してくれたのだと思います。
ざっくり言うと。
昔、萩本欽一さんの番組で
良い子、悪い子、普通の子っていう設定のコントがありました。
(アンダー30の方、多分ちんぷんかんぷんですみません。40オーバーの方、懐かしく聞いてくださいね。)
この比率。
良い子(優秀な群):普通の子(普通の群):悪い子
の比率は
2:6:2
であるというのが
師匠のいうパレートの法則の説明でした。
師匠のお教えはこうでした。
君たちが人材育成を、しようとて研修を企画する。
100人集まったとする。
そのうち20人はモチベーションも高く、理解力にも長けており、教えなくても自分で十分なことを学び取っていく群は2割。→良い子
業務命令で参加したり、必要に駆られて参加したりと決してモチベーションは高くないが、教え方次第によっては手応えを感じて必要なことを過不足なく学び取っていく群。60人。→普通の子
どんなに仕掛けがよくても理解をしていかない、理解しようとしない群。20人。→悪い子
の割合に分かれる傾向があるのだ、と。
そして
研修企画や人材育成を担っているとつい
良い子2割の習熟度を
『当たり前』と思い込んでしまい、アプローチ次第で伸びるはずの『普通の子』6割をむげにしていることがある。
もしくは理解しようとしない『悪い子』2割の修正にこだわり過ぎて他8割を冷静に評価できないことがあるので気をつけるように!
という
アドバイスでした。
このお教えは今でも時々思い出します。
特に支援者同士のやりとりにおいて。
2割はみなまで言わずとも分かる人たち。
6割は伝え方、連携の仕方次第でパフォーマンスを上げられる人たち。
そして
後の2割は
どうしても理解しようとしない人たち。
どうしようもない2割の人たちが運悪く続くことがあって
ちょっとしんどくなる時がありますが
2:6:2の法則を、思い出すと
これが全てではない!と
立ち直れたりします。
人生万事これ、塞翁が馬。
どうしようもないことは
確率的にも
ナガクハ続かない、と思えたら
しんどい時も乗り切れるかな?
連携でしんどくなってきたときには
私はそう思うようにしています。