ギャン父、毒母からの解放。アラフォーからの自分生き直しブログ

ギャン父、毒母からの解放。アラフォーからの自分生き直しブログ

自分の言葉で自己表現し、今と未来をより良く生きていきたい。回復途上ですが相談援助のお仕事もしています。書くこと話すこと…対話を通して人生の課題と向き合うお手伝いがしたい。ゆっくりまったり生きづらさから回復しながら生きてゆくのもいいもんだ♪

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こまり。です。

相当、相ッっ当 久しぶりに自分史を書いています。

ようやく書き進める気持ちになりました。
それでもちょっとしんどいのでノリノリで書いてやるっ!という気持ちではないのですが
ボチボチ再開しようと思います。

再開しようと思えるようになったのは

ギャンブル依存症の当事者で
頑張って回復を続けている人たちの書いたブログを読んだからです。


色々あって色々考えて回復を続けている姿に勇気をもらいました。
ありがとうございます!


どこまで書いてたかな?

小学校高学年くらいまででちょっとストップしてたかなあと思います。
ここから両親が離婚するまでは家庭の中は本当に地獄で
それを思い出したくない気持ちもありました。
こちらにも少し書いています。父親への想い。

それ以上に自分史を振り返るのがしんどかった理由。
それはこの頃には自分があるようでなかった、辛いことや考えなくてはいけないことを考えないように生きていた時代だったことに気がついたからです。

すごく悲しくて切なくて痛いことを思い出しました。

小学校4年生の冬にインフルエンザか何かで1週間ほど学校を休みました。

私が学校を休んだ日に
私の葬式ごっこが盛大に行われたそうです。(私は直接は知らないので後からクラスメイトに聞いた)

私の机の上に何人かの男子が乗って
「〇〇が死んだ、死んだ」と大合唱。
机の上には花瓶が飾られていた。

その騒動はどうやって収束したのか分かりません。


何が辛いって
こんなことをされているのに
私は
自分のことを人気者だと思っていてこのエピソードを後でヘラヘラ笑いながら聞いたということです。

みんな、珍しく私が休んだからちょっと気になったんだよね?
ぐらいに当時は思っていた、勘違いしていた、という事実を成長してから悟りました。
辛すぎる。
めっちゃ嫌われてるやん。
葬式ごっこで盛大に葬られるぐらいやのに。

そもそも当時の私にはクラスメイトに好かれる要素があまりない。

勉強ができない子をバカにしたり
不登校の子がいることを
「先生、あんな子がいるの4年〇組の恥です!」
と堂々と言ったりしてました。

なんであんなにも人の気持ちが、痛みが分からなかったのだろう。

葬式ごっこをされて
ヘラヘラ笑って人気者だと勘違いしているくらいなので
自分のことも一つもわかってなかったんだと思います。
人のことが分かるわけない。

傷つくことにも

傷つける事にも
無自覚で鈍感な私に

どうしたらいいのか
その考え方とは違く考え方があるのか
教えてくれる大人はいませんでした。

クラスメイトを突然罵倒したり酷いことを言ったり
叩いたりという奇怪なエピソードを学校の先生から聞くと
母親は怖い顔をして
「どうしてそんなひどいことをするの? したらだめじゃない。」
と繰り返すばかり。どうしてと聞いておいて私の言い分は言えたためしはありません。

そして必ず最後にこう言われました。

「お母さん、恥ずかしい。」

自分はなんだかダメで恥ずかしい子どもだということは分かりました。

ここから私はいじめや両親の喧嘩などで傷つくことと同じくらい
人を大切にしない振る舞いで人を傷つけること、嫌な思いをさせることも繰りかえすようになるのです。

そう、被害と加害を繰り返していくのです。

こまりです。
4月はじめに父親が危篤だと知りました。

ギャン父、危篤。

令和2年4月14日、亡くなりました。

死んだら仏というわけで
もう父の前に「ギャン」をつけるのもやめます。

その後の妹とのやり取りで知ったことは

実は昨年暮れからターミナルケアをどうするか検討がされていて
緩和ケアのある病院への入院も提案されていたようなのですが
父がどうしても入院は嫌だと言ったそうです。
昨年暮れから訪問看護を導入し、在宅看取りの体制をとっていたようです。

なんで緩和ケア嫌がったのかな?
まだ父親が若い時、私の祖父が亡くなりました。
祖父はこまり家を追い出されて単身生活保護で暮らしていたようです。
ある日、アルコール依存症専門病院から連絡があり、
もう長くはないから家族なんとかしてくれとの事だったようです。
当時、父親はギャンブルに狂っており、自分の父の看取りや葬儀の段取りも
全部妻(こまりの母)に押し付けていました。
かろうじて喪主として葬儀を出したようです。
このことも母親は恨み言としてよく私に話していました。

父親の看取り
アルコール依存症で長らく一緒に暮らしたこともない父親の最期を
引き受けるのがしんど過ぎで
余計ギャンブルに逃げていたのかもしれないな、なんて思いました。

最期に強く在宅を望んだのは
今のパートナーとの暮らしが
落ち着ける居場所、家庭であったからかもしれません。

最期を
自分が望む形で迎えられたこと
看取ってくれる人が居て一人ではなかったこと

なんだか安心しました。

勝手な期待とは思いつつも
急変する数日前まで
テレビで「好きな競馬を見ていた」という話を聞き、
ギャンブルはやめててほしかったなあとちょっと思った。

父親が狂って破滅に向かった賭博は麻雀だったので
競馬は大丈夫と思ったのか?
外出もままならない状態だったので
テレビで競馬見るぐらいは…ってことだったのかもですけど。
ちょっと複雑な気持ちになりつつ
それは父親の問題なので私ががっかりすることでもないなとも思うのです。

なにはともあれ生きて合うことはもうなくて
ガチンコで怒りや悲しみをぶつけることもないので
一つの区切りにはなりましたが

ギャンブルに狂った父親のいる家庭で育ったことは
その後の私の生き方考え方には大きな影響を与えたのは事実です。

その影響から解放されて
私の人生を生きていく
その取り組みは今後も続きます。

そして
父親の死によって
絶縁していた母親とも会わざるをえない。

その時に
また怒りにとらわれないように

自分自身をより良く生きていく取り組みは
これからも続きます。
こまり。です。

昨日は父親との別れのことを書きました。

昨日のブログ。ギャン父への想い

あの時の激しい感情とちゃんと向き合ったのは初めてじゃないかな。
凄く惨めで悲しくて腹立たしくて
あの日を境に決心というか意固地になったというか
「馬鹿にされるような人間になってはいけない」みたいな気持ちが大きくなりました。

だらしない親の子どもだから勉強ができないなんて言われたくない。
可哀想な家庭の子どもだと同情されたくない。
どうせ同年代の友達なんかには私の苦労は分かるはずもない。私の苦労なんか分からない人達とは友達になんかなりたくない。
私は逆境に耐えて生きてきたからみんなとは違う。みんなより大人だ。
「年齢よりもしっかりしている。大人だね。」と言われることが勲章。
幸せになることが父親への復讐。私は幸せにならなければならない。
私のように不幸な人を救いたい。


改めで当時の想いを文字にしてみた今の私の感想は・・・

こんなことを思い詰めていたあの頃の自分を癒してあげたいなあという気持ちになりました。

腹立たしいことや辛いこと、悲しいこと、人を恨んだり妬んでしまうこと、自分を責めてしまうこと、惨めな思いをしたこと

そんなネガティブな思いを持っていることはちっとも悪くないんだよ。
泣いて叫んで話してもいいんだよ。
気が済むまで怒ろう。気が済むまで泣こう、喚こう。
歳よりもしっかりなんてしなくていいんだよ。

そうして自分の感情をしっかり味わってから
立ち上がろう。

そう言ってあげたい。
そっと心の中で泣きわめく13歳の私を抱きしめてあげました。

当時周りの大人が誰もしてくれなかったこと。
当時誰にも渦巻く感情を正直に話せなかった自分を
今の自分が認めてあげました。

時間は戻せない。
今となっては両親との関係も取り戻せない。

自分で自分を癒すしかないのかなとも思います。

こまり。です。

約30年前にギャンブルに狂って自己破産して夜逃げしていった父親が危篤だそうです。

ギャン父、危篤。

ギャン父夜逃げは私が中学2年にあがったばかり。丁度4月の今頃のことでした。

それまでも散々家に帰らない(行先はどうも雀荘だったらしい)→借金作る→返済に困って母親を脅す、死ぬとか死ねとか騒ぐ→金ができたらまた家を出る を繰り返してこまり家は修羅場だったので私はギャン父が逃げようが死のうがいなくなってせいせいしていました。

母親と離婚成立し、夜逃げするまでの数か月間は本当に地獄のような日々だったので
こんなつらい思いをさせる、そして逃げる父親を心の底から恨んでいました。

夜逃げとはいえ、後で聞いた話ではギャン父を闇金から「逃がす」算段を母親や父方祖母はしていたようです。
逃げる前日?だったか
もうしばらくお父さんとは会えない、あんたはもう中学生だから話すけどお父さんとお母さんは離婚したんだ。こういうことだ。最後に話すことがあればどうぞ、と無理やり別れのセッティングをされたのだけれど私は父親を睨みつけソッポを向いていました。
やっと絞り出した言葉は

「人が勉強やクラブを一生懸命頑張っているのを台無しにしやがって!」
でした。

その時の父親の返事も当時の私には怒りしかなかった。

ちょっとヘラヘラ笑いながら
「ああ、頑張ったらえいやん。なんでも。まあ、頑張りや。」

怒りと悲しみで声は出ないけど涙が止まらなかった。

あんたのせいで貧乏になった。
あんたが父親で恥ずかしい。
どんなに頑張っても貧乏で惨めでギャンブル狂いの娘で…

本当に憎かった。私の不幸は全部ギャン父のせいだと思っていた。
それからしばらくはずっとそう思って生きてきました。

だらしない親の子どもだから勉強ができないなんて言われたくない。
可哀想な家庭の子どもだと同情されたくない。
どうせ同年代の友達なんかには私の苦労は分かるはずもない。私の苦労なんか分からない人達とは友達になんかなりたくない。
私は逆境に耐えて生きてきたからみんなとは違う。みんなより大人だ。
「年齢よりもしっかりしている。大人だね。」と言われることが勲章。
幸せになることが父親への復讐。私は幸せにならなければならない。
私のように不幸な人を救いたい。


こんな考え方がその後の私を作り上げていきました。

こういう考え方がかえって幸せから遠ざけることも知らずに。

ギャン父のせいで不幸になったという思考から解放されるのには20年ほどかかってしまいました。
こまり。です。

4月4日、妹から連絡がありました。

父親のパートナーから連絡あり、数日前から容態が急変してあまり長くはないようだ、と。

現状、コロナウィルス感染予防で

父親が住んでいるエリアは4日現在でもいつ緊急事態宣言がだされてもおかしくない地域なので県外からの圏外からの移動自粛は必至。
父親は肺がん治療中でCOPDの既往もあるのでコロナ感染はハイリスク(ひょとしたら罹っている可能性も)

妹が代表で見舞いに行くことにしたのと
もし、葬儀などがあっても父親の親族の出席はおそらく妹だけになるだろうということを話しました。

私もこの期に及んで

会いたいとは思いませんでしたが

もう、恨んではないこと、それを伝えてないのは
少し残念に思いました。

最期に父親と向き合うのかななんて思っていたのですが
あっけなく
終わりになりそうです。

父親が死んでも
終わらないものもある。
その死によって
向き合わざるを得ない自分自身の課題は
残ったままです。

また少し父親との記憶を辿りながら
自分自身と向き合うために
ブログにも書いていこうと思います。