それからどれほどの時が経っただろうか。
ウンスの柔らかい感触と優しい手の温かさを顔や頭に感じながらヨンは震える息を吐き出し、ウンスの胸元から顔をあげた。
まだ少し濡れているヨンの目尻をウンスの指先がそっと拭ってくれる。
ヨンもまたウンスの頬に残る涙を親指の腹で優しく拭った。
「イムジャは、俺がメヒを想うがゆえに心を凍り付かせたと言いましたが、あの頃は失ったものがあまりに大きく、何かに縋らねば生きてゆけなかったのです。それが師やメヒへの想いでした」
「うん……」
「メヒのことは確かに大切に思うておりました。俺にとってメヒは一番近くにいて、守るべき存在で、懸命に慕うてくる彼女を守りたい、失いたくないとその気持ちが恋慕の情に変わってきたのだと。ですがそれは今思えば幼い想いだったのでしょう。イムジャへの想いとメヒへの想いは全く別のものだと、今ならわかります」
恐らくそれはメヒも同じだったのだろう。
だから俺を置いて逝ってしまったのだ。
「正直……恨んだこともありました。何故俺を信じてくれなかったのか、残される俺のことは考えなかったのか、俺はその程度の存在だったのか、と。何より信じてもらえなかったことが苦しくて口惜しく辛かった」
ウンスがヨンの手を優しく包んでくれる。
ヨンはウンスの手を握り返し、その指を絡めた。
「だがイムジャはいつも俺を信じてくれた。天界から無理やりこの地に攫い、幾度も危険な目に遭わせてきた男を、一寸の迷いもなく信じてくれる。そればかりか俺を案じ、俺のために泣いてくれる。己よりも俺を優先する。今もそうだ。いつも俺の事を想うてくれる。それが堪らなく嬉しかった」
「俺は薄情な男なのかもしれぬ。イムジャに出会うてから、メヒの顔が思い出せなくなったのですから」
「え?」
「イムジャと出会うてから気づけばいつもイムジャのことばかり考えおりました。泣いてはおらぬかと、笑うていてほしいと。日を追うごとに募っていく貴女への想いに胸を焦がし、想うてはらならぬと、夢にも見てはならぬと、そう己に言い聞かせてもイムジャへの想いは止められなかった。己の中にこれほどまでの感情があったのかと初めて思い知らされました」
「イムジャと出会うまでは、ただ息をしているだけの日々。守りたい者、守るべき者はこの世に残っておらず……いつ死んでも良いと。この世にしがみつく理由がなかった。なのに何故俺は生きているのだろうと、そう思うて生きて参りました」
されど、とヨンは言葉を切った。
「今ではこう思うのです。俺が生き永らえていたのは、イムジャと出会うためだったのではないかと」
「私と、出会うため……?」
「ええ。俺はいつも何かを探していた。初めは自分でも何を探していたのかわかりませんでした。されど今はわかります。俺が探していたのは、生きるための名分だったのです」
「名分?」
「そして俺は見つけました。イムジャと出会うて、生きる名分、生きる意味を」
ヨンはウンスの手を握ったまま、その瞳をじっと見つめた。
「それはイムジャ、貴女です。イムジャこそが俺の生きる意味なのです」
「私?」
「はい。何故イムジャだったのか、貴女と出会うてからずっと考えておりました。だがいくら考えて答えはわからなかった。ですが、長い間考えてようやくわかったのです。理由などなかったことが」
「え?」
「理屈や道理ではなかったのです。ただ俺の魂が、心が、体が貴女を求めていた」
「ヨン……」
「覚えておいてください。貴女こそが俺の生きる意味。俺の命だ。貴女を失えば俺は今度こそ生きてゆけぬ。だから……俺をひとりにしないでくれ」
「ええ、もう貴方をひとりにはしないわ。二度と。絶対に。約束するわ」
それに、とウンスはちょっと照れたように言った。
「私たち家族になるのよ。きっとすぐに子供だってできるわ。そしたら貴方はお父さんよ!そのうち孫まで生まれて、貴方はお爺ちゃんになって。そうやってこれからも家族が増えていくわ。子や孫に囲まれて幸せに暮すのよ。子供たちが独り立ちしたら……う~ん、あ、そうだわ!貴方釣りが好きだって言ってたでしょ?だからは釣りなんかして二人でのんびり過ごしましょう。ふふ、老後の楽しみができたわね」
かつて夢に見た情景がふとヨンの脳裏によぎった。
小さな藁葺の家の、小さな庭。
その小さな藁葺の家は、今の我が屋敷に変わり、屋敷の庭で自分に笑いかけるこの方とその腕に抱かれている未だ見ぬ我が子。
そんな光景が浮かんだ。
この方はさぞ優しい母になるだろう。
甘やかすばかりではなく、叱る時は叱り、褒めるところは褒め、惜しみない愛情を我が子に注ぎ、常に賑やかで笑いの絶えぬ温かい家庭になるに違いない。
今まで亡くしてばかりだった家族を得る。
それもこの方と血の繋がった子を。
俺と、この方の子。
まだ婚儀もまだだというのに。
だが、ウンスのいう先の世はとてつもなく無上の幸せのように思えた。
「私が貴方をうーんと幸せにしてあげるわ」
そう言ってウンスが笑うものだから、ヨンも思わず笑ってしまった。
既に過ぎた幸せをこの方からもらっているというのに、まだくれるというのだろうか。
「イムジャは俺を甘やかしすぎです」
その日の夜。
常ならば己の腕にウンスを囲い眠るヨンだがその日は逆だった。
今日は私が貴方を抱きしめてあげたいの、とウンスは愛し子を包み込むようにヨンの頭を胸に抱え込んだ。
優しくて、穏やかで、思いやりに満ちていて、それでいて悲しみを背負うこの人のことを、受け止めたい。そう想いを込めて。
「これからは、苦しい時や辛い時はこうしてあげる。だから私の前では無理しないで。泣きたくなったら此処で泣いてね」
「はい」
「一人で泣かないで、約束よ」
「はい」
このように誰かの腕の中で眠るなんて初めてだ。
ウンスの柔らかい胸に抱かれていると守られてると感じた。
自分はいつも守る側で、それが性に合っていた。
それがいざ、自分が守られる側となるとこそばゆい。
だが、たまには悪くない。
ヨンはウンスの胸に顔を埋めた。
心が安らぐ甘い香り。頬に当たる柔らかい感触。温かい体温
彼女の腕が頭を抱え、背中を優しく撫でてくれる。
とくん、とくん、と彼女の心音が聞こえる。
救われるような安堵を覚え、この方の優しさと温もりに包まれてそっと目を閉じた。
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一日も早い復興をお祈り致します。
