歯
「かまびすしい」とでも云うのだろうか、蝉が鳴いていた。その声はなにか、不要に
頭上にある木々からウッドデッキに斑ら模様が映っていた。風が吹くとその像が揺れて心の裡を無闇と搔き立てる。日除けのパラソルのつくる陰の中で、私は布を張っただけの簡易な椅子に腰かけてコーヒーを飲みながら菓子を口に運んでいた。
街からは、明らかに人が少なくなっていた。ちょうどお盆の時期なので、故郷に帰っている人が多いのだろう。それは毎年のことだ。夏になると一時期、蝉が鳴くのも、街から人がいなくなるのも毎年起きることだ。
おまけに今日は台風が近づくと言う。
そうしたこととはまったく関係ないだろうが、歯の詰め物が取れた。アイスカフェモカにアップルパイを食べていて、口の中に違和感を感じたので、舌で探り、指で摘まんで口外に出してみると、銀色に光る金属片だった。
瞬時、茫然とそれを見ていて考える。
――今、歯医者はやっているだろうか? わからない。
欠けたところを舌で慈しむように触れている。口の中でそれは、甘いようにも苦いようにも感じられる。
カフェを去って、久しぶりに訪ねてみると、当たり前と言えば当たり前だが、行きつけの歯医者はやっていなかった。しかも、今週はずっと休みだと言う。すると、休み明けまでずっと、このままでいなければいけないわけだ。
その張り出されている、休暇を知らせる但し書きを見つめながら門外に佇んでいると、ふと思い出す。ここで私は何か恥ずかしい失敗を仕出かしたんだ。もちろん、子供の頃のことだが。また、大きな罪というのでもないが。その、誰にでもあるであろう、おそらくは些細なことが妙に心に疼いた。無くしてしまいたい失敗が。
それに、ずっと今まで何かに蝕まれ、生来の大切なものを失い続けてきたのも確かな気がした。その失ったものと引き換えに私は何ものかになろうと努めてきたのかもしれなかった。
私はこの世で何ものかになっただろうか? なんでもないとは言えないだろうが、たいしたものになったわけでもないだろう、と思う。
そんなことが歯の詰め物がとれたことによって明らかになったのだった。
今の私に何が残っているか。だが、その残ったものでこれからを生きてゆくしかないのだ。
新しく、上を目指すなどということはないだろうが、現状を維持するようにしたいものだと思う。それともまだ、試練と呼べるものが私の身に降り掛かることがあるだろうか? そして、それに私は、全身全霊で立ち向かうのだろうか? それはそうだろう。疑いないことだ。
帰り途、小さな公園でベンチに腰掛けて休むと、また蝉の声が頭上の桜の木から降ってきた。私を咎めたり
向こうでは若い女が飼い犬に水場から水を与えている。白いブルドッグのような犬で、パグと云ったか、小さく、室内で飼えるのだろう。それが妙に鼻を鳴らして園内を歩き回っている。女も近所に住んでいるのだろうが、見知らぬ人だ。
ふと、あの犬は喰うために人に飼われているのだろうか、と思った。犬は人に飼われなければ生きていけないのだろうか。では、人は何者に飼われるためにあくせくとしているのだろう?
再び歩き始めると、やがて雨が降り始めた。傘を持たない私は、濡れるに任せるしかなかった。そうだ、台風が近づいているのだ。