港の見える丘の上と下

 

 「あっ、ベイブリッジ」と娘が言う。

 建ち並ぶ倉庫の上に白い橋桁が僅かに認められる。口にはしなかったが、《目ざといな。》と私は思う。
 私たちは坂を登り詰めているのだった。階段ではあるが、段差は小さく、段と段の間の幅もある。要するに、緩やかなのだ。それでも距離はあり、登り切るまでにはそれなりに労力を要する。だが、登り切れば港が見えるであろうことはわかっていた。
 昔、ここで夏休みの宿題の絵として港を描いたことがある。もちろん、その時ベイブリッジはまだできていなかったが。実は、この坂の下に親戚の家があって、夏休みになると泊りに来ていたのだ。いつからだか、それは途絶えたのではあるが。
 坂を登り切って左に曲がると、米軍の家族のハウスが道の両側に建ち並んでいたはずで、そこは起伏のある地形ではあるのだが、今では薔薇園になっている。
 アメリカ人のハウスより向こうは遠い場所だった。幼い私にとってそこは異世界だった。その先を見てみたいという好奇心と、行くと元の場所に戻れなくなるかもしれないという恐怖心が入り混じっていた。
 今、立場は逆転したのかもしれなかった。殆ど、今いる場所から未知の世界に飛び込んでみたいという欲求の方が優っているのだ。戻れなくたってかまわない、とすら思っているのかもしれない。家族のある身でそんなことできはしないが。そんな私にも今まで何度か、未知の世界に浸ってから生還した経験はある。そして今でも、「もう一度」という想いが心の片隅に潜んでいるのも確かだろう。
 私たちはベンチを見つけて腰掛ける。
 「あっつぅ」
 もう真夏は過ぎたとはいえ、今日は蒸し暑い。私たちは汗が引くまでそこに腰掛けていた。
 朝方は雨が烈しかったが、もうすっかり止んでいる。ただ、陽が差すというほどの天気ではない。
 時季外れで、園地にさすがに薔薇は殆ど咲いていなかったが、色とりどりの花々が植えられている。人手で綺麗にされているのだ。今の私にはそんなものは本当ではないと思われてならない。
 港の展望台に、普段はもっと混み合っているのだろうが、人影はまばらだった。
 左手遠くに巨きな、真っ白な船体のクルーズ船が碇泊しているのが見える。それを見て私は言う。
 「港を出てゆく船を見てみたいものだな」
 「あたしは乗ってみたい」
 海は青くなかった。
 子供の頃、ここらは遠い場所だった。あの坂道までだったのだ。今、それらは逆転しているに違いなかった。そう、嘗ては上がまだ見知らぬ未来で、下は現在だった。そして今はたぶん、上が現在で、下はもう知ってしまった過去なのだろう。
 私たちは車道を横切って先へ歩いて行く。もうここらは観光地となっている。
 やがて眼の前に、低い生垣の向こうに十字架がいくつも立っている場所が現れる。『外人墓地』と云うのだろう。それはまったく私が立っているところとは異世界であった。ふと背中に感じている世界に戻れ、という声が聞こえてきそうな異世界だった。
 行く手の道の左には壁が鶯色と白に塗り分けられた瀟洒な洋館が建っている。そこはレストラン&カフェになっているようだ。
 「雰囲気あるぅ」
 口にはしなかったが、《そのとおりだな。》と私は思う。ただ同時に、自己を離れてはいけないという戒めに似た気持ちも感じる。それに、異人さんが赤い靴を履いた女の子を連れ去ったほどに間違ったことかもしれない。 

 「ねえ、あそこの塔のようなところからは何が見えるかしら?」
 どんな景色が見えるか? 今はそのような言葉が流行りのようだ。それは、何か夢を叶えたら新たな地平が見えてくるとでも言うのだろう。だが、私には偽りの言葉であるように思われてならない。だがそれは、夢を叶えなかった人間の言い訳だろうか。
 そのときだった。ふと私に思い出されたことがあって、それを口にした。
 「昔お前が子供だった頃、お前と一緒に歩いていてお前が消えたことがあった。目の前から急に居なくなったんだ。それに気づいて俺は肝をつぶさんばかりだった。振り返ると、お前が後ろ遠くから従いて来る。呼ぶと、駆けてやって来た。俺はお前を抱きしめたんじゃなかったか」
 ところが、それに対して娘は、「記憶なんていい加減なものね、お父さん」と言う。「あれはお父さんがふらふら先へ歩いて行っただけよ。あたしを忘れちゃったみたいに。呼ばれてお父さんのところへ走って行くと、怖い顔をしてあたしのことを叱るの。『どこへ行ってたんだ! ちゃんと従いて来なさい!』って。抱きしめてなんかいないよ。でも、あたしにとってもあれは冒険の時間だったわ。なんだか知らない街を一人きりで歩いているような気分で」