ペスカ


 それは桃の木だった。
 背は高くなく、根元から四方に向かって枝を拡げてもたげていて、あたかも落ちてくる空を懸命に支えようとしているかのように見えた。それはなぜとはなく古木であるように思われた。
 鮮やかな緑の葉に半ば隠れるようにしてたくさんの実がなっており、芳香が辺りに漂っていた。その木になっている実は格別に大きいように感じた。
 「こうやって見ると、見た目の綺麗な桃って少ないんだね」と僕は連れの女に率直な感想を言う。中にはいびつな実も、割れて裂け目の入っている実もあったのだ。
 「そうね」
 「自然のものってみんなもっと完璧かと思っていたんだけど」
 「ペスカってイタリア語で桃っていう意味なんですって」と妻は僕の話題を逸らして言う。
 「へえーっ、知らなかったよ」
 「イタリア語ですものね」
 それは、僕らが今し方桃のパフェを食べて来たカフェの名前だ。僕らは店からは少し離れた駐車場に向かって桃畑や葡萄畑の中を歩いていたのだ。そのときふと、実際になっている桃の実を目にして足を止めたのだった。
 「若い人たちばかりでやっていたわね、あそこ」
 「そうだな」
 「昔の人では今ふうの店はやっていけないのね、きっと」
 僕は春の頃、桜とほぼ同時に咲く桃の花を思い浮かべていた。遠くの高い山並みに雪が残り、この盆地には一面にピンク色の帯が広がっている様を。同時に咲くといっても、どちらかが少しは早いんだろうけど、どっちがどっちだか、僕は知らない。いずれにせよ、この桃の木は毎年春に花を咲かせ、夏になると実をつけてきたんだ。それは何のためなんだろう?
 何ものかを生み出す。それは生きてゆくことの宿命かもしれない。僕も拙いながらもずっとつくり続けてきた。中には明らかにまがいものもあっただろう。そうだ、何のためと言えば、妻と一緒に生きるためだったかもしれない。
 そのとき、僅かな風がおこって桃の匂いが湧きたった。
 「ああ、いい匂い。なんだか、生きなければいけない、と言われているみたい」
 声のした方へ顔を向けると、そこには知らない女がいた。いや、知ってはいるが彼女のまとっている時間が錯綜しているように感じる。若いと思っていた女が年老いている!!
 僕は驚いて君を見つめる。
 「どうしたの?」
 「いや、なんでもない。さあ、帰ろう」
 「ええ、帰りましょう」
 そうだ、あの都会へ、生きるための場所に帰るのだ。
 「ところで、どうしてあそこへ行こうと思ったんだ?」
 「あら、いくつになっても女はスイーツは好きよ。でも、昔のことを想い出しているのかもしれないわね、あれを通して。若い頃に東京のフルーツパーラーで食べたこともあるでしょ?」
 「ああ、そうだな」とは言ったものの、そのようなこともあっただろうが、何を食べたとか、正確なことは想い出せない。
 空には夏雲が湧いていた。