過ぎゆく夏に

 

 私たちは涼しい道を歩いていた。
 ここは南北に走る山稜の西側にある斜面なので、朝の早い時間帯は陽が当たらず、涼しく歩けるのだった。ただそれも時間の問題で、陽が高く昇るとやがてこの斜面にも夏の強い陽射しが突き刺してくるに違いないのだった。それはいつか必ずやってくるはずだった。
 もう夏の終わりで、チングルマの花はすっかり散って白髪のような毛を伸ばしていて、そこに朝露が宿って、朝の淡い光の中で涙のように光っていた。
 今朝は快晴で、向こうのさらに西の台地状のところにはもう強い陽射しが当たっていた。その手前の、下を左右に流れる沢の対岸には岩場が見える。あそこには、あまり人は行かないのだが、この山の開山の伝説の残る岩屋があるのだ。
 人工物を除けば、この自然は人間の歴史が始まったときから、少しは自然破壊もあったかもしれないが、ずっと変っていないのだろう。それともあれらの人工物こそが自然破壊なのだろうか?
 私たちは左手に聳える山稜が途切れる南のコルへ向かっていた。その道はおおむね緩い上り坂だった。先へ歩くにつれて、山の陰がだんだんとこっちの方へ近づいてくるのがわかる。ある意味、私たちは追われていた。あの光に掴まれたら私たちは全力で抵抗しなければならないはずだった。
 私には昨日の幕営地での夜のことが想い出される。星を見にテントの外へ出たところ、夜空の一角の雲が切れてそこにだけ無数の星が瞬いて見えたのだ。
 「あそこにだけ花火が上がっているみたい」と君は言う。
 私は何も言わなかったが、そう言われれば本当にそのように見える光景だった。
 <すると、あれは永遠の花火だね、音はしないけど。>
 何ということなく胸の高鳴る光景だった。
 私たちは無言でその星空を見つめ、やがて雲が星たちを覆い隠すと、どちらからということもなくテントの中に引き揚げた。
 いよいよ陽に当たり始める手前で君は岩の上に腰掛けて、真剣な表情で日焼け止めのクリームを顔や首筋に塗る。
 「あなたにも塗ってあげる」
 そう言うと、君は私の顔に日焼け止めのクリームを塗る。私は君にされるがままになっている。私にクリームを塗り終えると、君は満足したようににっこりと微笑む。
 コルに上がると、とたんに私たちは強烈な陽射しから逃れられなくなってしまった。とうとうそのときがやって来たのだ。これからは持てる力を尽くして自分たちが歩む道を切り拓いていくのだ。
 コルの反対側へ歩いて行くと、私たちがこれから攀じ登ろうとする岩尾根が初めて見えてくる。まるで恐竜の背中のように段が連なって徐々に高みへと上がっている。
 「あれだよ」と私が君に声をかけると、君は小さく頷く。
 その岩尾根に取り付くためには、いったん斜面を尾根の末端まで降りて行かなければならない。ザレた斜面を一下りして岩石帯に乗り、その上をさらに下へ降りる。傾斜が急になると真下の、右手から落ちている雪渓の末端に小さな池ができているのが見えてくる。そこから右へ斜めに下降して雪渓に乗る。雪渓の上は照り返しで暑い。
 私たちはその小さな池の畔で休む。ここは周囲から見られにくい、謂わば死角となっていて、秘密の場所になっている。
 君は陽射しの強さにもう一度日焼け止めのクリームを塗り直す。掌にも耳にもつけている。これからは手袋を脱いで素手で岩を攀じ登らなければならないのだから。それが終わると君は頭の髪を包んだ赤いバンダナをしっかり締め直す。
 私は一瞬装備が足りるだろうかと疑う。今日はカムを少々と、細く短いロープしか携えてきていない。ここは私にとっても登るのは初めてのところなのだが、私の実力なら問題ないだろうと考えていた。確かに、ここは易しい、険しいところのないルートだ。だが、私一人で登るなら問題はなくても、今日は未熟な連れがいる。確保点はしっかりつくらなければならない。
 岩の取付きまではまだ50mほど草付きの斜面を登って行かなければならない。まだ手は使わない。歩いて行くだけだ。
 私たちはロープでお互いの身体を結び合うと、無言で一歩一歩ゆっくりと取付きまで登って行く。手は使わないものの、傾斜は急だ。そして、ようやく岩に取り付くところに辿り着く。
 私は君に言う。
 「急いで登ることはないからね。手で掴むところや足を置くところをしっかり見て探してね」
 君は緊張した面持ちで声を出さずに唇をきつく結んだまま一つしっかりと頷く。
 「ロープはこんがらないようにして流せばいいからね」
 君にビレーは頼まない。君にその技術はないのだから。
 岩場は一つ一つの規模が小さく、長い距離を休まずに登る持久力を必要としない。すぐに足で立って休めるところが現れるので楽だ。私は確保点をつくれるところまで登ると、君に上がって来るように声をかける。
 登って来る君は緊張と真剣さから怒ったような表情を浮かべている。私にはそれが可笑しい。
 これが君にとって初めてで、ひょっとしたら最後の、本番の登攀だ。今日は、今まで標高の低いところにある規模の小さな岩場で練習してきた成果を発揮するときだ。
 それにしても、あのときもカムを使っただろうか? そんなものがあっただろうか? いや、あっただろう、まだそれほど進化していない原始的なカムが。
 北に並行して走る尾根に点々と人が立っているのが見える。立ち止まってこっちを見ている人もいるようだ。時おり声も聞こえてくるが、何と言っているかはまったくわからない。それに、よく通る声と通らない声があるようだ。また、女だから声が通らないということもないようだ。
 私たちは程よくあらゆる世間的な騒がしいものから確実に隔てられていた。確かに、ここは私たち二人だけの世界だった。
 そうして私たちは、私たちの前に立ちはだかる障害を一つずつ乗り越えて行った。
 私たちは途中のピークで休み、水を飲んだ。チョコレートは暑さで溶け始めていた。私たちは笑いながらそれを分け合って食べた。また、二人で横に並んでセルフタイマーで記念写真を撮った。
 私はザックの中からそのとき撮った写真を取り出す。
 写真の中の君はとびっきりの笑顔をつくっている。それは自然に洩れた顔ではない。つくった顔だ。私はそれを良く知っている。二十年も一緒だったのだもの。
 私は背景の岩山の様子を写真を前にかざして比べてみる。まったく変っていなかった。
 しばらくしてから私はこう考えた。
 <自然は何一つ変っていないのに、人間はすっかり変ってしまった。>
 すると、君の声が聞こえる。
 「あれ、槍かしら?」
 遠くの、少し見慣れない形をした有名な山は青かった。まるで何か大切なことを憶えているかのように青かった。
 あのとき君はどんな服装をしていたのか? 私は思い出せない。それが気になって、私はザックの中からもう一度写真を取り出して見る。今からするとやや古い身なりをしている。だが、それは私も同じことだ。
 「行こう」と私は声をかける。私たちは立ち上がって再び登り始める。
 しばらく水平なので、私たちは同時に登っている。だが、岩場では、交互に動いているときより同時に動いているときの方が危険だ。それは、ふいにバランスを崩した場合に、確保の支点がないので相手を止めるのが難しいからだ。
 そのとき、「あっ、花!」という声が後ろで聞こえる。私は振り返り、君が見つめている視線の先に眼を移す。
 リンドウだった。日陰になっている岩と岩の間の隙間から一輪のリンドウが私たちの頭上にある空よりも濃い紫紺の色の花を咲かせているのだった。それは記憶がいっぱいに詰まっているような色だった。少なくとも今の私にはそのように思われてならなかった。あの遠くに見える山よりも頭の上に懸かる空よりも昔のことを良く知っていように思われる青い色だったのだ。
 その花の色を見ているうちに私には一つの思いが湧く。
 <君はなぜそんなに早く逝ってしまったんだ?>
 その花に向かって私はこう問いかける。
 <子供は大学に入ったのだから、自立を促すことになったかもしれない。でも、俺たちの人生はこれからじゃないのか? これからこそ、二人きりの時間を大切にして生きていくべきではないのか?>
 「ええ、そうね」。横を向いた君はこう続ける。「ごめんなさいね」
 あれより嬉しいことはない、とよく君は言ったものだ。二度とできないことだから、とも言った。
 病院の病室で横になっている君からその言葉を聞いて、私には一つの計画が思い浮かんだ。
 「どうだ、もう一度行ってみないか?」
 君は笑ってこう答えた。
 「もう無理よ」
 私は急き込んでこう言った。
 「大丈夫だ。俺が絶対にお前を連れて行ってやる」
 「もういいのよ。あのときあなたに連れて行ってもらっただけで。あんなに幸せなことはなかったわ」
 私は君のその言葉に満たされた思いがしない。そうではないのだ。まるでそんな感じではないのだ。違うんだ。
 「俺は、もう一度、お前と一緒にあそこを攀じ登りたいんだ」
 なぜそんな言葉が私の口から出たのか、わからない。咄嗟だった。どうしても今この女を失いたくなかっただけだ。
 あれは確かに私の身勝手だったのだろう。
 <二度とできないことか、お前は凄いことをやったんだな。>私は青い色に満たされた心の中で妻に語りかけるのだった。
 私は心秘かに妻を褒めてやるのだった。<頑張ったんだな、お前はお前なりに精一杯。>

  ≪俺はそんなことはついに何もできなかったよ。この世にまったく何も残せなかった。≫
  ≪いいえ、あなたはわたしの心に幸せだったわたしを素敵な想い出として残してくれたわ。≫

 私はその青い花から眼を逸らすと、再び高みへ向かって登り始めた。
 岩の陰に入ると冷んやりした。その中で私は息を継ぐのだった。ここは3000m近い日本でもっとも高いところにある岩場だ。高度で息苦しいし、今日はあの日と同じように暑くもある。
 暫しの間強い陽射しを避けられる僅かな岩陰に二人で身を潜めていると、冷気が吹き過ぎる。その向こうから君の声が聞こえる。
 「いろいろあったけど、あなたと一緒に暮らせてよかったわ」
 私には返す言葉が見つからない。私には自信がないのだ。
 やがて傾斜はなくなり、手を使わずに登って行けるようになった。行く手にこんもり高いところが見えてきた。あそこが山頂だろう。
 そのとき、私は確かな思いを持って想い出した。
 私は君に先に立って歩くように言う。山のガイドとはそうするものだ。連れている人間を先に山頂に立たせるのだ。ところが、君は「一緒に行きましょう」と言って私の掌をとって歩き始める。私が立ち止まったままでいると、君は振り返り私をじっと見つめて無言で促す。
 そして、私たちは一緒に手をつないだまま横になって歩き、頂上を踏んだ。私は少し気恥ずかしい心持ちがしたのも事実だ。
 「うれしいーっ」
 見たことのない君の表情だった。君はそんなに感情を表に出す女ではない。
 「あなた、ありがとう」
 私はその一途な瞳にたじろぐ。私にとってはどうということない仕事だ。私は短く「ああ」と素っ気なく言っただけだった。
 それでも、それでは素っ気ないと気づいた私は、思い直してこう付け加えて言った。
 「当たり前のことだろう? 夫婦なんだから」
 そのとき私たちは結婚したばかりだった。

 君は私たちを結んでいたロープを自分の手で解く。そして、手にしたロープを離す。ロープは岩屑の上に落ちる。私はそのロープの末端を見つめている。

 私の想い出は現実の何かの音で破られた。
 音が聞こえる。その音のする方を見ると、今私が登って来た岩尾根と山頂を挟んで反対側にある斜面の下から、二人が登って来るようだった。山靴で岩を踏みつけたり軽く蹴ったりする音がしている。あっちは一般縦走路からの登り道になっているのだ。どうやら若い男女で、男は上も下も黒ずくめ、女は全体に赤い身なりで、二人ともサングラスをかけている。私は腰を上げてあの男女に二人きりの山頂を譲ることにした。
 私は降りて行き、彼らと行き過ぎる手前で一歩脇に逸れて立ち、道を空ける。山では登りが優先なので、それは当然のことだ。二人はそれぞれ私の脇を通り過ぎるときに礼を言う。
 「ありがとうございます」
 男の後ろから登って来た女の声に私は驚き、その場に立ちすくむ。
 それは私の妻の声にそっくりだったのだ。もちろん、そんなはずはない。妻の声であるはずがない。空耳だ。それとも彼女は私の妻と似た声の持ち主なのだろうか? 私の心の中にはそれを確かめてみたい気持ちが衝動的に湧くが、私はそれを自らに禁じる。もちろん非常識であるからだが、私は心の中であれを妻の声とする。今日確かに私は妻を連れてこの岩尾根を攀じ登ったのだろう。
 私は振り返ると、男の後について登って行くその若い女の背に向かって頭を垂れ、こう呟くのだった。
 「ありがとう……ございました」
 空の一角から蒼い風が流れ、霧が谷から湧いて昇ってきた。風は私の元に霧を連れてきた。白い霧は瞬く間に私の姿を包み込んでいった。私は、私の姿を隠した流れ往く霧の中で、亡き妻のことをいつまでも想い出すのだった。