品数の少ない料理店
暑い日だった。
私は汗を流しながら山道を登っていた。汗は後から後から噴き出してきて、シャツはもうびしょ濡れの状態だった。
<なぜこんな暑い日に山を登っているのだろう?>そう疑問に感じないわけにはいかなかった。山の中は確かに都会よりいくらか気温は低いだろう。木蔭の下や沢の水の流れる傍らは涼しいだろう。渡る風は心地良いだろう。だが、そこでじっとしているわけではないのだ。当たり前のことだが、長い坂道を頂上まで登り続けなければならない。それで涼しいわけがない。私がやっていることは、莫迦げた、殆ど自殺行為と呼んでよいものだった。
<こんなことなら冷房の効いた部屋でテレビでも見ている方がよかった。>私はそう思わざるを得なかった。
登り始めは沢沿いの道で、水の流れる音や光景にそれでも涼しさを感じ取れた。来てよかったと思ったものだった。だが、やがて道は沢を離れて森の斜面を九十九折に登り始め、沢音は背後にだんだん小さくなっていって、今では遠くに微かに聞こえるばかりだった。木蔭の下とはいえ、酷暑の中を歩いて荒い呼吸をしていると、口から火を吐いているのではないかと錯覚するほどだった。また、暑くてまったく何も考えられなかった。
そんなときだった。前方に山小屋が見えてきたのだ。事前の調べでは、山頂に到る道の途中に山小屋などはなかったはずだ。私は不審に思った。しかも、道はその小屋の真ん中を通り抜けていて、一見すると小屋を貫通しているようだった。実際は、道の両側に二つの平屋の建物が接近しながらも分かれて建っていて、道の上に二つの建物を渡している屋根が掛かっているのだった。謂わば、小屋が道に扉のない門のように建っていて、どうしてもその間を潜り抜けなければならないのだった。
向かって右側の建物の、奥の山側と道側を除いた二方には低い壁があるきりで大きく外に開けていて、内に広い空間が空いているようだった。左の建物は普通に壁があって、こちらの谷側の壁に窓が一つ外に向かって開いていた。
私がそのことを伝えようと思って振り返ると、友人の姿が見えなかった。
いかにも私は暑さで呆けてしまっていたのだが、確か、今日私は友人と一緒に山を登っていたはずだ。その記憶があるのに彼の姿が見えなかった。いつの間にか、知らぬうちに彼は遅れてしまったようだった。私はしばらく下の方の斜面を見つめていたが、誰かが登って来る気配はなかった。だが、一本道の登山道だ。あの小屋で休んでいればすぐ目の前の道を通るはずなのでわかるだろう。この暑い日に降りて行って、また同じところを登り返すのは御免だった。そこで私はその小屋で休むことにした。
小屋の前まで行くと、二つの建物を結んでいる屋根の下に看板が掲げられていた。そこにはこう書かれてあった。
『山猿亭』
それは木の板に焼き鏝を当てて、黒く焦がして描いた字のようだった。そして、その看板を潜って少し中に入ったところにある右の建物の開け放しの入口には、拙い字で赤く『ステーキ』と描かれた白木の板が立て掛けられていた。それは血のように赤い色だった。確かに、その赤い色には血を連想させるような不気味さが感じられた。
私はその看板を見て妙に空腹を覚えた。思えばそれも不思議な感覚だった。まだ昼前だった。暑さのためではないだろうが、すっかり空腹を忘れていて、文字によって初めて空腹感が湧いてきたかのようだったのだ。
右の建物の内には部屋が一つしかなく、その部屋の内部にはテーブルがいくつか置かれていた。どうやらここは宿泊ではなく、食事だけを提供するところのようだった。人を泊めるには建物の規模が小さ過ぎた。小屋の名前も料理店ふうだ。それに、ここはまだ山の中腹だ。昔はともかく、今の交通が便利になった世の中では、都会の近くにある山の小屋に泊まる人は少なくなってきている。営業的に成立させるのは難しいのだ。
それは素朴なつくりの建物で、下の地面の土が剥き出しになっていた。ただ、壁の部分に相当する場所の板戸をすべて取り払って数本の柱だけが立っていて、腰から上の空間を風が吹き抜ける構造になっているので、僅かな風があって心地良かった。
私が内に入ると、「いらっしゃいませ」と私の気配を察したのだろう、背後から若い娘が声をかけてきた。そして、彼女の後ろからさらに二人の娘たちが道と反対側にある建物から出て来て、どうやら食事中だったらしく、口元をエプロンで拭ったりしていた。人通りの少ないところに三人も若い娘がいることが不自然な感じを与えていたが、私も暑さで深くは気にかけなかった。
私は登って来た斜面側の端へ行き、テーブルを一つ選んで座った。他に客はいなかった。テーブルの上にメニューがないので、私は水を運んで来た娘にメニューを頼んだ。すると、娘は奇妙なことを口にした。
「メニューはありません」
私はわけがわからず、しばらく無言のままでいた。
「今日はやっていないの?」
娘は、「いえ、そうじゃなくって、この店ではステーキしかできないんです」と答えた。
娘は怪訝な表情を浮かべていた。まるで、そんなことも知らないのか、と逆に私の方を非難しているかのような口ぶりだった。確かに私は大昔の若い頃にこの山に登りに来たことがあるきりで、もうかれこれ二十年は来ていない。自然は変わらなくても人工物は変わるだろう。こうした料理店ができたからといってなにも不思議なことではない。
山の中でステーキとは珍しい。私に異存のあるはずがなかった。そう言えば肉の焼けるような匂いが辺りに微かに漂っている。この娘たちも肉を食べていたのかもしれない。売り物を食べているというのも少し変な話だが、それも私は暑さのせいであまり気にかけなかった。
「じゃあステーキを一つ」と私は注文した。
外を見ると、建物のすぐ下の斜面は木が伐られていて遠くの視界が得られるようになっていた。そして、今登って来た森の上に幅広い岩壁が見えた。あそこは沢を挟んだ対岸の山の岩壁なのだろう。しかも、その岩壁を攀じ登っている人が点々と見えるのだった。フリークライミングのようだった。そのことを私は知らなかった。確かに、私には思いもよらないことではあるが、山の中では意外なところでロック・クライミングをする人を時々見かけることがある。ひょっとすると、この店は食事をしながらその光景を見せようとする趣向なのかもしれなかった。
<ステーキを食べながらロック・クライミング見物か。それも座興かな?>と私は思うのだった。
料理を待っていると、肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。どうやら私は友人のことを半ば忘れかけているようだった。
岩を登っている人たちはよく墜ちていたが、身につけているロープと壁の途中に埋め込まれたボルトで墜落が止まると、彼らはまたそこから登って行った。そのときの私には、彼らはまるで壁に、山に、自然にどんなに振り払われてもしつこく付き纏う虻のように思われた。
やがて料理が運ばれてきたが、鉄板の上に肉が乗っているだけだった。それに、なにやら山菜が乗っていた。ご飯もついていない。
私はそれについて特に文句を言わず、<野性的でいいじゃないか>ということにしておいた。
「いやぁ、あれこそが真の征服だね。自然を征服しようとする人間の精神を具現化した姿であり、行為であると思うよ。あれに較べれば俺たちのやっていることなんかは遊戯だね」と私は料理を運んできた娘にクライマーたちのことを言った。
「そうでしょうか? 木を登るのはわかりますけど、岩は不安定です」
<??>わけのわからない言い方だった。真意がどこにあるのか、つかめなかった。ただ、この店がクライミングの光景を売り物にしているわけではないことがはっきりした。だが、私は料理店の娘と議論することは避けようと思った。
すると、続けて娘はこう言った。
「人間はもっと自然と調和すべきだと思いませんか?」
「……まあ、それは確かにそうだ」
「あんな岩登りをするのはブルドーザーで森の木を倒すのと同じことじゃありませんか?」
娘は自然保護主義者のようだった。私は自分にとって風向きの悪いことを自分で言ってしまったようだ。私も登山者のはしくれだ。それが現代の風潮で否定的であることはわかっている。
「いや、そういうわけじゃあないが……」
私は苦しく弁解するしかなかった。
「それにあの人たちは岩に穴を開けて、長い変な金属の棒を埋め込んでいるんですよ」
たぶん、ボルトというプロテクションの器具のことを言っているのだろう、と私は思った。
「それで『自然の岩はいいなぁ』なんて言ってるんですよ。あんな岩場は十分に人間の人工物ですよ。自然じゃあありません。自然の岩を登りたければあんなものは一切使うべきではないんです」
彼女はクライマーを批判しているようだった。でもそんなことをしたら、いったん墜ちたら死ぬしかないじゃないか、と思ったが、私には良くわからないことだった。
「それに、どうしてこんな人工の道をつけて力のない人が歩けるようにしなければならないんですか?」
今度は彼女は私たちハイカーに矛先を向けたようだった。やや論理が飛躍しているようだし、行き過ぎた考え方でもあるだろう。道のない山を歩けるものだろうか? もちろん、そういう人がいることは知っている。でも、ほんの一部だし、そんなことをやっていては時間がかかって仕方がないだろう。効率的でないのは確かだ。
私が答えないでいると、娘は私の元を去って向こうの、道の反対側の建物へ入ってしまった。
それにしても不思議な考え方をする娘だ、と私は思った。登山道も人工物なのだろうか? 私は娘の言ったことを吟味しようかと思ったが、止めた。忘れることに決めたのだ。暑さが私をそう仕向けたのだろう。
ステーキは一風変わった味だった。それに少し硬かった。何の肉だかわからなかった。ただ魚でないことだけは確かだった。それは私が今まで食べたことのないもののようだった。
<山の中だからな、熊かもしれない。鹿だったらもっと柔らかいはずだ。>私はそんなことを考えていた。<支払いのときにでも訊くか。>
娘たちの姿は見えない。三人とも道の反対側の建物の中にいるようだ。話し声も聞こえない。食事を続けているのかもしれなかった。
そのときだった。向こうの岩壁に見覚えのある背中が現れた。つまり、壁を攀じ登っているのだ。私は何人もの人が登っているのを見てきた。だが、その背中は他の見知らぬ人たちから区別して識別できるものだった。それはちょうど群衆の中に見知った馴染みの顔を見出すときのような感覚だった。
<あれは彼じゃあないのか?>と私はいなくなった友人のことを思った。<彼は道に迷ってあんなところを登っているのだろうか? いや、彼があんなことをするはずがない。>私は友人の性格を良く知っていた。臆病なほどに慎重なのだ。それは山の中でも日常生活でもそうだった。それに中年太りの彼があんなことをやろうとするはずがなかった。もちろん、ロック・クライミングの技術や経験はない。
その人物は明らかに岩登りに不慣れで、他のクライマーたちとは違っていた。見ているだけでこっちの方がハラハラさせられるのだった。まるで見ている人を怖がらせようとしているアトラクションのようだった。
何よりも遠くて良くわからない。確かに友人に似てはいる。だが、そんなはずはないのだった。
そうこうしているうちに、その人影は墜ちた。また、ロープで止まるのが見えたのではなく、下の森の中にまで墜ちて私の視界から消えてしまったのだった。
<あの男はロープを結んでいただろうか? ロープが身体から下に垂れ下がっていただろうか?>そんな疑念が私の頭に湧いた。私は記憶を探ってみたが、その様子はないようだった。<だが、そんなはずはないだろう。何の安全策も施さないで岩を登るはずがない。それではこの料理店の娘が言ったことを実践しているようなものじゃないか!>
<あるいは、誰かに壁を登るよう強いられたのだろうか、それとも何か獣にでも追われて壁に逃げ込んだのだろうか?>だが、それも莫迦げていて、現実的な考え方ではなかった。
<私はどうすべきだろう? 私に何ができる? あそこにはクライマーがたくさんいるはずだ。誰かが怪我をすれば助けないはずがない。あの人も安全策を講じていないはずがないし、ひょっとするとあの程度の墜落は彼らにとって日常茶飯事なのかもしれない。私が行っても足手まといになるばかりだろう。私にできることは何もないはずだ。それに彼と決まったわけじゃない。確実に彼であるなら、ここでステーキなどを食べている場合じゃあない。だが、友人は今すぐにでも下の道から登って来るかもしれない。それは1秒後かもしれないし、1分後かもしれないし、1時間後かもしれない。>
私はとりあえず急いで残りの肉を食べた。そして、道が伸びているはずの緑の木蔭に眼を凝らして友人が現れるのを待った。
すると、なぜか一人の娘が向こうの建物から出て来て道を下って行った。
「さっき壁から人が墜ちました」と外へ出て来たもう一人の娘が私に言った。
「見ていたよ。でもどうして君たちがそれを知っているんだい?」
「連絡がありました。もうすぐその人がここへ連れて来られます」と残りのもう一人の娘が言った。
<どういうことだ? あの人をここへ運んでくると言うのか? ヘリポートでもあるのだろうか? そんな様子はないが……>と私は訝しんだ。
やがて下の道から大きな男が一人の人間の死体を肩に乗せて運んでくるのが見えた。娘の誰かが「お父さん」と呼んでいるのが聞こえた。どうやらこの料理店の主人のようだった。
男は二つの建物に挟まれた日陰の道に運んできた死体を横たえた。驚くことに、それは私の友人の亡骸だった。
≪やはり彼だったんだ! なぜあんなところを登っていたんだ!≫
私の頭は混乱した。いろいろな思いが私の頭の中を急速度で駆け巡っていて、私はそれを取り仕切ることがまったくできなかった。
気づくと、男は友人の服を脱がせている。パンツだけにして脱がせ終えると、娘の一人が男に包丁を手渡した。
私は驚いて大慌てで訊いた。
「ちょっと待て。どうするつもりなんだ?」
「肉を切り取って」
「焼いて」
「お客さんに出します」と三人の娘たちは平然とした面持ちと口調で順に一言ずつそう答えた。
「俺たちも食べるがね」と大男が初めて口を開いた。「今日もご馳走だ。二日続けて人間の肉が手に入った」
「??」
<何者なんだこいつらは?>私の全身に恐怖が走った。そして、いろいろな疑念が頭の中を巡った。
<では、私がさっき食べたものはいったい何だったのだ? まさか前に墜ちて死んだ人間の肉だと言うんじゃあないだろうな?>
私はさらに懸命に考えた。
<止めさせるか? 当然そうだろう。だが、この大男は包丁を手に持っている。私はどうすべきだ? 彼らがやろうしていることの邪魔をしてこの凶暴そうな男を激高させたら、私もどうなるかわかったものではない。友人はもう死んでしまっている。生きている人間を殺そうとしているなら助けようとせねばならないだろう。そこで逃げるわけにはいかない。だが、確かに、死んでしまった人間の肉の処理の問題だ。凶器を持っている頭のおかしな男を力ずくで止めさせようとしないからといって私が非難されることはあまりないはずだ。ここは忍んで、彼らの眼を盗んで山を駆け下って警察に連絡するか? だが、警察がそんな荒唐無稽な話を信じるだろうか? 暑さで頭がおかしくなったととられるのが関の山ではないだろうか? 証拠だ。何かこの犯罪の証拠を手に入れなければならない。写真か? それは難しいだろう。写真に撮られるのを黙って見ているはずがない。それにしても、彼らはそもそも何か狂言を打っているのかもしれない。つまり、演技をして私を脅かそうとしているのだ。あるいは試そうとしているのだ。そうだ、こんな莫迦なことが現実にあってたまるものか! 彼らは最初から人間の死体を切り刻むつもりなんかはないんだ。>
私がそんなことを考えていると、大きな男は奇妙なことを話し始めた。
「俺たちは君らみたいにむやみに子供をつくらない。自分で数を制限するんだ。制限と云っても君らみたいに避妊するというのとは違う。殺し合うんだ。俺たちは互いに殺し合って仲間の数を少なくするんだ。食い物が少なければ殺し合って数を少なくし、食い物が多ければそんなことはしない。自然と俺たちの数は増える。だから、この世にいるのが俺たちだけならこの世界から食料がなくなることはない。食い物の量だけ生きていられる俺たちの数を増やしたり減らしたりするんだからな。君らのように食い物を食い尽くしたりはしない。そんなことは弱者のやることだ。共倒れはしないのさ……」
彼の声は何かのけたたましい声によって遮られた。犬が吠えながら現れたのだ。いや、私に犬の姿は見えないのだが、吠え声だけが私の頭の中で大きく鳴り響いているのだった。それはまるで彼の言葉に対する私の反発の声が爆発したかのようだった。
男の姿が一瞬にして消えると、森の中へ何かの生き物が走り去って行く後ろ姿が見えた。見ると、逃げて行ったのは一頭の大きな山猿だった。その後から三頭の小さな猿がついて行った。猿たちはすばやく木に登ったかと思うと瞬く間に上の方に駆け上がり、木から木へと飛び移ってすぐに私の視界から消えていった。
目覚めると私の傍らには友人がいた。
「目を覚ましちゃったかい?」
ちょうど私たちが休んでいた場所を犬を連れたハイカーが通りかかって、その犬が森の中に何か獣の気配を感じて吠えたてたのだった。私たちは道の脇のテーブル・ベンチにいた。私はその上で横になって眠っていたのだった。
「ああ。でも、変な夢を見たよ」
「どんな夢だ?」
そう彼は言ったが、あまり深く聞きたくなさそうな口ぶりだった。彼も暑さでまいっていたのだろう。それで私もその話題についてはそれきりにした。あの奇妙な夢は私の胸の内にしまわれたのだった。
すると、友人はこんなことを言った。
「今日は自分で自分を褒めてやらないとな。こんな暑い日に重労働をして山を一つ極めるんだから」
「どういうことだ?」
「山を降りたらご馳走を食べないか? いい店を知っているんだ」
「いいね。で、何の料理だ?」
「焼肉さ」