「富士山に登ってみたいな」
 夏が近づいて暑くなってきた頃、君が言う。
 「そうだね、日本人なら一生に一度は行ってみたいよね」
 それは僕らが高校の最後の学年の時だった。
 「連れてってくれる?」
 君はねだるような目を僕に差し向けて言う。
 「ああ……、いいよ」
 僕は安受けしたのかもしれない。後になってからそう考えた。
 でも、僕も行ってみたいけど、なかなか一緒に行こうと言いだす人もいないし、まあそれはそれで〈この際やってみよう〉だ。僕は覚悟を決めた。

 東京からは、富士山は冬になるとよく見えようになる。雪をかぶった富士山だ。ほかの季節にも良く晴れれば見えているんだろうけど、冬は空気の透明度が高くなるし、なによりも雪をかぶるとそれによって明らかに認められるようになるのだ。西からの冷たい季節風が吹くようになって、ふと気づくと富士山が建物の間から朝な夕なに垣間見える。場所によっては建物の上に見えたりする。朝は雪をかぶった姿が、夕はシルエットで。そして、その姿が心に宿り、一度行かねばならない、と思う。でも、冬はかえって一般の人には登れない。それは鍛練を積んで装備を持った人たちの話だ。たいていの人は夏に限って登る。

 僕は段階を踏んで登る計画を立てた。実は、僕は計画を立てるのが好きだ。ひょっとすると実行するのより好きかもしれないくらいだ。
 最初に都心の鳩森八幡神社にある富士塚に、次に郊外の高尾山の頂上近くにある浅間神社に登った。これらは、昔の人がそこへ行くと、富士山に登ったことにしているだけで、そこへ行ったからといって勿論実際に登ったわけではない。仕方のない事情があるとはいえ、そんなものはインチキだ、ズルだ。
 富士塚は螺旋状に道がつけられていて、岩がゴツゴツしていて歩きにくかったけど、あっという間に着いた。高尾山には沢山の人が登っていたけど、道を少し外れた浅間神社には誰もいなかった。さらに先にある山頂からは富士山が見えるはずだったけど、裾野が薄ぼんやりと見えるばかりではっきりとしなかった。でも、あいつであるのは確かだ。次はいよいよ本物の富士山だ。僕はそのとき、模糊とした相手を見据えていた。

 僕の立てた作戦はこういうものだ。
 午後3時頃から登り始める。暑さや直接の日射を避けるためだ。
 八合目の小屋に泊まる。高度に体を慣らすために一気に山頂までは行かない。
 翌朝は3時頃起きて山頂に向かう。途中で御来光を迎える。御来光は山頂で待つのが一般的だけど、外で長く待つのは寒くて辛いし、人も多い。

 晴れそうな日を見定めて約束した当日、僕らは新宿から五合目までバスに乗って行った。富士登山のための直通バスだ。
 運転手は乗客がバスを降りるときに、「みなさん、登山頑張ってください」と声を掛けた。
 着いた五合目で木の杖を買い求めた。これが富士登山で皆がやっている流儀だ。金剛杖というのだそうだ。途中の小屋で、そこを通過した証明として焼き鏝で杖に印を押してもらうのだが、その都度お金を取られる。僕には、なんだ、という感じだ。
 君は、いつもと違って、長い髪を後頸のところで束ねている。僕がいつもとは違う君の様子を見ていると、君は言う。
 「何?」
 「なんでもない」
 「変な人」
 休み々々ゆっくり歩いて日が暮れかけ、大気が冷たく感じられるようになってきた頃、ようやく八合目の小屋に着く。登山道は、山小屋のあるところではきまって水平になっていて、その北側を通っている。
 山小屋の中の広い部屋の隅の一角を寝床としてあてがわれた。そこへ案内したおばさんは僕にこう言う。
 「守ってあげてね」
 君のことだろう。
 〈もちろんさ。〉と僕は心の中で思う。

 小型の目覚まし時計のアラームの音で起きた。
 そのとき、僕はなんだか変な夢を見ていた。
 どういうわけか、得体の知れぬ生き物の肉の入ったカレーを食べる羽目になったのだ。僕はそれが厭で、その肉だけ残して店を出た。すると、誰かが後ろから追いかけてくる気がしてならなかった。
 「眠れた?」
 「うん」
 「歩けそう?」
 「うん」
 「よし、行こう」

 僕らは懐中電灯を手に頂上に向かって歩き始めた。
 すると、登っている間、何かが僕の周りを漂って翔び回っている気がしてならなかった。僕はその、僕に付き纏う奴を摑まえようと手を伸ばしたくなるのをこらえていた。
 そいつは僕を招いているというか、呼んでいるというかしているようだ。
 さっきから何やらそんな気がしてならない。錯覚なんだろうということはわかっているんだけど、そいつはうるさい虫のように付き纏う奴だった。
 そいつが僕の顔を覗き込んでいるような気がする。僕の様子を窺っているのだ。隙があるかどうか確かめているのだろうか? それなのに、そっちへ目を振り向けると、いつも既に姿を消した後なのだ。
 隙があったらどうしようというのだろう? 僕を襲うのだろうか?
 僕はそいつの厭な臭いを嗅いだように思った。
 〈俺はあんな奴とは関係ないさ。〉

 東の空がだんだん明るくなってくる。最初は赤い筋が地平線の上に細長く伸びていた。それが蜜柑みかん色から檸檬れもん色になって、やがて色が失せると懐中電灯が要らないほどに辺りは明るくなる。それでも、陽の光はなかなか現れない。もう辺りはすっかり明るいというのに。
 下を向いて歩いている僕らは、周りの人の歓声で陽が昇ったことを知った。
 「きれいね」
 僕らは立ち止まってしばらくの間黙ってその光を見つめていた。
 やがてもう見つめていられないほど明るくなると、僕らはどちらからということもなく再び登り始めた。

 鳥居を潜ってもうひと頑張りすると山頂だ。
 柱の立つ、あそこが山頂なんだろう。
 着いた。
 君は近くにいる人にカメラのシャッター押しを頼む。で、二人で写真に収まる。
 「やったー」と満面の笑顔を向け嬉しそうにしている君に僕は、「本当の山頂はあそこなんだ」と向こう側にある白いレーダードームを指して言う。「ここは吉田口の山頂だよ」
 「ああっ……、そっかぁ」と君は洩らして、額を金剛杖に当てて凭れ掛かる。
 「まあ、少し休もう」と僕は言って、休める場所を探す。
 太陽はもう強い光を発していた。とても直接見ることはできない。そこにあるのだという存在がわかるだけだ。でも、暖かく感じる。こんな経験をしたのは初めてだ。

 最後の急坂は滑りやすくて大変だった。一歩々々登って行く。辛いけどここで諦めるわけにはいかない。諦めたら本当にそこで終わりなんだ。そんなこと、できるわけがない。
 今度こそ本当の山頂だ。日本一の富士山のてっぺんだ。
 そりゃ、こんなものはまだ誰もやったことがない、なんてことじゃない。たくさんの人がやっている。僕には初めてだ、と云うに過ぎない。そうだ、僕にとって初めてで、且つこれで終わりなんだ。

 無事登頂を果たして戻って行くと、何やら立派な神社がある。往きでも気づいていたのだけど、その時はそれどころじゃあなかった。
 「お詣りする?」
 「うん」
 「二礼二拍手一礼だよ」
 「うん」
 「大丈夫?」
 「うん」
 君は長い間お祈りをしていた。
 僕はあっさり片付ける。僕は「神仏をたのまず」の主義だ。
 その時だった。二、三歩下がった僕が君の背中を見ていると、あいつが君の周りを旋回している気がしてならなかった。最初、蜥蜴とかげかと思ったけど、ずっと長い。躰をくねらせて動いているけど、蛇にしては短いうえに足が四本ある。また、躰が真っ黒だ。それは、小さな龍と呼ぶのが一番適切なようだった。
 ここに至ってようやく僕は高山病のせいにした。そうだ、これは幻覚なんだ。それでも僕は、君を護らなくっちゃと強く思った。
 腰を下ろせるベンチを見つけてそこに座ると、僕は軽く君の肩を抱いて言う。「大丈夫?」
 君はちょっと驚いたような様子を見せて小さい声で返す。「大丈夫よ」
 「お弁当食べられる?」僕らは小屋で朝食をお弁当に替えてもらったのだ。
 「ううん、駄目」
 「じゃあ、昨日の小屋まで下ってそこで食べようか?」
 「そうしましょ」
 はっきり言って、君ははなが出ていた。

 降るにつれて暖かくなり、身体が楽に感じられるようになった。なによりも風がそれほど冷たく感じられない。それに、あいつもいなくなったようだった。生き続けるのに安全な地帯に到って、それこそ煙のように消えたのだ。
 やっぱり高山病のせいだ。それに違いない。そう僕は思った。

 昨夜泊まった小屋は人でごった返していた。僕らは豚汁を頼んでテーブルに席を見つけて座る。小屋の人が料理を持ってくる。
 「あれっ、そのお弁当……」と彼は言う。
 で、僕は言う。「昨夜ここに泊まったんです。上は寒くて食べる気がしなくて、小屋に戻って食べようということにしたんです」
 「ああ、そうですか。じゃあ、ゆっくり召し上がってください」と笑顔を浮かべて言う。
 彼が向こうへ行くと、君が言う。
 「山小屋ってありがたいわ」
 「そうだね、水なんかまるでないところでこうして食事の用意をしてくれるんだからね」
 僕は改めて、僕が生きるのを、さらには僕のやりたいことを手助けしてくれる人がいることに気づいた。

 やっと出発点の五合目に戻る。無事に帰って来たんだ。僕は登り始めた自分と降りて来た自分は変わっているだろうかと考えたけど、何も変わっていないように思った。
 僕は今回の山登りで何か得たものはあるだろうかと自問した。あるとしたらきっと……、途中で諦めちゃいけないってことだ。最後には負けるとしても、その最後までけっして諦めてはならない。それに、諦めなければもしかすると、負けてもそれとわからないかもしれない。そんなようなことを考えた。

 君は家族に買って帰るんだとお土産物店でしきりに物色している。
 僕はバスを待つ列に並ぶ前に、富士山の形をしたメロンパンを一つ買ってくる。バスの中で二人で分け合って食べるつもりだ。
 ところが、バスに乗り込んで出発するより先に君は食べたいと言いだす。
 食べ終わると君は言う。
 「富士山食べちゃった」
 「でも、思っていたより大変だったね」
 「うん、大変だった」と君は神妙な面持ちをして言う。
 「もう一度行こうとは思わないな」
 「うん、一度だけでいい。でも良かったわ。あなたと一緒に登れて」
 僕は心の中で、《もう一度やるとしたら何十年か先でいいな》と秘かに思った。
 これは一生に一度のことなんだ。そういうことは誰にでもあるだろう。しかも、それにはできることとできないことがある。それに、できるとしても、如何にうまくできるかだ。誰にでもできる一度のみのことがあるとしたら、それはその人のかもしれない。


 この時の「君」は、今では僕の妻だ。
 そして、時代が変わって外国人の弾丸登山が社会問題になった今でも、富士山に登った時のことを思い出すたびに、あいつのことが気に懸るようになった。まるで、いつか必ず会うのだから自分を忘れるなと迫るのだ。特に、点々と起きる「一生に一度のこと」があるたびにそう思うようになったのだった。あれから実際にあいつを見掛けたことは一度もなかったのだけど。