『味噌汁ロマンス』好評発売中です。
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いよいよ『味噌汁ロマンス』特集も今日で13回目。最終回を迎える。
ところで、シンクロとなっていた『33年後のなんとなく、クリスタル』はどうなったのだろうか。
昨日ようやく読み終えた。
最初は選挙のこととか出てきて、関係あると思ったのだが、読み進めていくうちにやっぱり関係ないかという気になってきた。
おかしいな。あれだけはっきりしたシンクロのサインが出ていたのに。
まあ、たまにこういうこともある。これでもかというシンクロのサインが出て、それに従って行動したところ、結局何も意味がなかったということは今までにも何度かあった。
ところが読み終えてみて、なるほど、そういうことだったのかというものが見えてきた。なんとなく、ではあるが。(笑)
正直言って、僕は『なんとなく、クリスタル』の世界があまり好きではない。これは作品がどうだという話ではなく、そこに登場する人物だったりライフスタイルにあまり共感できないということだ。『33年後のなんとなく、クリスタル』はもちろん『なんクリ』から時が経っていて、同じではないのだが、やはり同じ登場人物ということで、そこに流れる根本的な雰囲気というものは変わっていない。
『なんクリ』が出た時も、クリスタル族に対する批判がたくさんあったのだが、多くは少し上の世代から、「近頃の若者はなっていない」という感覚のものだった。
僕は同世代でありながら(実際には『なんクリ』の登場人物よりは3、4歳年下なのだが)、同様の感想を持っていた。そしてそれは『なんクリ』(『なんクリ』で描かれたのは裕福な階層の人たちで、必ずしも当時の若者を代表しているわけではないという印象を僕は受けたのだが)を読む以前から、日々の観察から感じた同世代に対する失望感からも来ている。一般の若者はあそこまでブランドにこだわっていなかったし、お金の使い方もあそこまで派手ではなかった。ただ、根底にある、その時の気分で適当に生きていけばいいというような雰囲気には、共通するものがあった。
世渡り上手的な考え方。例えば、当時僕はまだ高校生だったが、クラスには優等生から不良までいろいろいた。そして、みなどこかで共通していた。
優等生は試験範囲の勉強だけし、とりあえずいい点だけ取っておく。別に勉強に興味があるわけでもない。
不良(当時はツッパリとも言われていた)は不良で、勉強ができないことに対する開き直りがあるにもかかわらず、カンニングして落第点は間逃れようとしていた。堂々と白紙で解答用紙を出し0点を取っていた僕からすると、全くもって骨がない。だって試験制度そのものを支持していなく、そのようなもので評価されても全く意味がないと思っていたのだから。
最悪なのはその中間にいた人たち。適当に遊び、適当に勉強する。そして公務員のような安定した職を求める。
とはいえ、僕もその時代に生きていたわけなので、少なからずその影響は受けている。その世代の持つ良さも理解できる。
それは個人主義が芽生えたこと。
僕らの世代は日本で初めて経済的豊かさの恩恵を受け、贅沢を味わうことができた世代だと思う。だからこそ自分勝手が許された。やりたいからやる、やりたくないからやらないということを平気でやるようになった。実際にはそのように意志表示が明確でなく、なんとなく面白そうだからやる、かったるいからやらないという感じだったが。(笑)
ところが、それ以前の世代(例えば学生運動世代)では、そんなたるんだ考えは許されないというような気運があった気がする。
現に、田中康夫さんは『33年後のなんとなく、クリスタル』の中で、彼も参加した『湾岸戦争に反対する文学者声明』について触れている。その時、声明文にある「我々は」というのを「私は」とすることを提案したと。
連帯と個人に対する考え方の違いが世代間であったようだ。
連合赤軍を含めて、日本で多くの革命的な試みがカルト化してしまった要因に、日本人に根付く、集団を個人よりも優先させてしまう風潮があるのではないかと僕は思っている。
では、個人主義とは何なのかと言った時に、日本国憲法にある「公共の福祉に反しない限り」という条件以外は、無条件に個人の自由を尊重する気運が必要なのだと僕は思っている。贅沢も含めて。。
そこに条件をつけてしまうと、解釈の仕方で、それはわがままだとか贅沢だということが決めつけられてしまう恐れがあるからだ。
もちろん、実際には無条件ということはありえない。なぜなら、ある個人の自由の追求が別の個人の自由の追求を妨げることがあるのだから。
でも、それを本人が自ら選ぶのと、周りから強制されるのでは、意味合いが変わってくる。
そして、個人の自由という概念が十分社会に浸透している欧米では、たいていのことでは、それが踏みにじられることはない。しかし、日本の場合、それが熟していないので、一歩間違えるとすぐ戦前に戻ってしまう危険がある。
クリスタル世代特有の快楽主義にもどこかで共感している。当時は『ブルータス』などの雑誌をよく読んでいたから。田舎暮らしだって、結局のところ快楽主義の延長だ。暮らしの心地よさを求めて、野菜作りや薪ストーブ暮らしなどに引かれる人は多い。
『味噌汁ロマンス』との関連があるとすれば、ひとつはこの点かもしれない。『味噌汁ロマンス』では「楽しむ」というキーワードが出てくる。義務感からやるのではなく、やりたいことをやればいいと。
待てよ。ここのところ何度か出てきたサニャーシンだが、OSHOの教えにもそういうところがあった。
もうひとつの接点があるとすれば、一般大衆に向けたメッセージであるということだろうか。『33年後のなんとなく、クリスタル』の登場人物たちは、僕から見ると普通の人だ。主人公のヤスオを除いて。もちろん、普通という言葉が何を指しているかによるし、それぞれ独自の人生があってひとくくりにまとめられない部分はたくさんあるけれど、僕の周りにいる「普通でない人たち」(笑)とは違う世界に住んでいるという意味で。
50代になったクリスタル世代の日常が描かれている。ブランドも出てくれば、イタリア料理やワインも出てくる。基本的にはみなそこそこ裕福だ。今の言葉で言ったら勝ち組に入るのだろうか。
ところが主人公のヤスオ(田中康夫本人)が政治家であるために、社会問題なども時々出てくる。ダムの話や子宮頚癌ワクチンの話や原発の話。
でもそれはメインストーリーではない。あくまでもサブとして出てくるから説教じみていない。
『味噌汁ロマンス』もそうだ。環境や政治、スピリチュアリティなどに関することがところどころ出てくるが、あくまでもサブとして出てくる。
『天上のシンフォニー』や『百姓レボリューション』は社会的なメッセージがメインストーリーとして出てくる。そうした作品を求める人も多いので、それはそれでいいと思っている。ただ、それ以外の人たちにも伝えていく必要性を参院選後特に強く感じていて、それには『味噌汁ロマンス』のような作品のほうがうまく機能すると思っているのだ。
オルタナティブ(例えば農的暮らし、自然育児、代替医療、スピリチュアリティなど)なライフスタイルが広がっていくことは未だに重要だと思っているのだが、同時に多くの人がそうしたものを求めていないことも事実だ。あるいはそうしたライフスタイルに魅力を感じていない。
でも、それもまた彼らの自由であり、彼らの生き方の中にも変容の糸口はあるはずだ。やはり、個々が自らのスタイルでやりたいようにやるのがいい。
仮に変容の糸口がなかった(結局システムに取り込まれるだけで)としても、少なくとも1票を持っているのだ。そこを否定してしまったら票は入らない。
政治的に考えるとそういうこと。
特に日本国憲法第13条にある「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」ということは、クリスタル世代なら誰でも守りたいだろう。
第13条か。
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