アマゾンプライムに『未知との遭遇』が入ってきたので、45年ぶりに観た。

 

『未知との遭遇』といったら、僕が映画を観始めた高1の時に『スター・ウォーズ・新たなる希望』と共に公開されたスティーブン・スピルバーグの作品。当時は、その二つが目玉で、スターウォーズといつも連動して思い出す。

 

大町市にあった小さな劇場でロードショー公開より半年ほど経って観た。当時はロードショーといって、東京や長野県でいえば松本辺りの主要映画館でまず公開され、それ以外の小劇場では半年待たなければならなかった。

 

劇場そのもののサイズの問題で都会か田舎かはあまり関係なかった。東京の国立市にあったスカラ座でも同様に半年後だった。

 

『スター・ウォーズ』に比べると今では知らない人のほうが多いだろうが、ハリソン・フォードが『スター・ウォーズ』出演のきっかけとなった『アメリカン・グラフィティ』に出ていたリチャード・ドレイファス主演の映画だ。

 

実は、『アメリカン・グラフィティ』に出ていた俳優でその後もブレイクしたのがハリソン・フォードとリチャード・ドレイファスだけだったというのが不思議な縁だが。(ロン・ハワードは監督やプロデューサーとして成功しているが)

 

アメリカでの公開は1977年で日本公開は1978年。

 

なぜ、このタイミングになってアマゾンプライムに入ってきたのだろう。

 

最近、UFO目撃情報が普通に主要メディアで報道されるようになったからだろうか。

 

1977年に、『スター・ウォーズ』と『未知との遭遇』が公開されたのにはもちろん意味があると思っている。

 

ひとつは宇宙を舞台に描かれたスペース・オデッセイ(宇宙叙事詩)、もうひとつは地球を舞台にした現実的な宇宙存在との遭遇の話。『コンタクト』よりも20年前に。

 

すっかり忘れていた。45年も経っているのだ。無理もない。あんな巨大な母船が最後に出てきたっけ。

 

『天上のシンフォニー』じゃないか。

 

まてよ。『天上のシンフォニー』を書いたのも『コンタクト』と同じ時期。

 

20年前に植え付けられていたということか。

 

そして、あの不思議な5つの音。

 

インドのダラムシャーラーに宇宙から伝えられたという音。

 

ダラムシャーラーといったら『天上のシンフォニー』にも登場する。

 

アマゾンプライムのある人は観てみるといい。

 

そして『天上のシンフォニー』も読んでほしい。2023年の今読むと、もっとよくわかるのかもしれない。

 

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宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』を観てきた。

 

ジブリ映画がこの夏公開されていることを全く知らず、最初はインディ・ジョーンズの最新作かミッションインポシブルの最新作を観ようと思っていて、息子といつ行こうかと相談していたのだ。ところがインディ・ジョーンズを観遅れて上映時間が夜だけになってしまった。映画館に足を運ぶなら昼間のほうがいいし、ミッションインポシブルより先にインディ・ジョーンズが観たかった。

 

すると、息子がジブリ映画も公開されていると言う。

 

「えっ、嘘」

「宮崎駿監督の」

「宮崎駿監督自身の作品?」(じゃ、なんで全然宣伝されていないんだ)

「『君たちはどう生きるか』」

と言われて、何となくポスターを思い出した。鳥のポスター。「あれか」

 

正直言って、あのポスター、僕にとっては全く興味が掻き立てられなかった。最近YouTubeの勉強をしていて、やたらサムネイルのことを言われるが、サムネイル的に言うとアウトだろう。

 

だから、記憶に残っていなかったのだ。

 

いずれにしても予告編を観てみる。

 

 

なんだかよくわからなかった。

 

よくわからなかったというのは、謎めいているというわけでもなく、なんか力が入っていないというか、ジブリの予告編らしくなかった。

 

「木村拓哉も出てるで」

まあ、それはどうでもいい。別に木村拓哉がどうこうというより、アニメを観る時声優のことはもともと気にかけない。息子は結構な声優オタクで、コナン(名探偵のほう)の登場人物の声優は全員知っていて、他のアニメを観た時も、これはコナンの誰々の声優だとか教えてくれる。

「原作、脚本、監督宮崎駿だって」

「マジか」これはもう観るしかないだろう。

 

ものすごいブランド力だな。サムネイル的にダメで、予告編もイマイチだったのに、監督だけで、インディ・ジョーンズもミッションインポシブルも一気に抜いてしまうのだから。映画館に行けるのは土日だけで、琵琶湖で泳ぐ予定も結構入っているので、3本観る時間はなかった。

 

映画館に着くと、観客は僕らだけだった。夏休みのど真ん中の土曜日だというのに。

 

いくら田舎の映画館だからといって、もう少しいてもいいのに。もちろん、映画館には人が来ていて、『君たちはどう生きるか』の上映室だけガラガラだったのだ。上映開始までには数人入ってきたが、それでも少ない。

 

もしかして、ダメなのかな。

 

ポスターや予告編の印象は嘘ではなく、だから話題にもなっていないのだろうか。

 

だんだん、不安になってきた。

 

そして映画が始まった。

 

戦中の日本のシーン。『風立ちぬ』を思い出す。もしや、ああいうタッチの映画? いや、『風立ちぬ』も悪くはなかったのだが、『もののけ姫』とか『ナウシカ』とか『ラピュタ』などに比べると、僕の中では微妙だった。

 

それでも宮崎監督はあの作品を集大成の作品として選んでいて、本人の思いが強く反映されていると聞いた。

 

その瞬間、ふに落ちてきた。監督は『風立ちぬ』で引退し、もう二度と映画は作らないと言っていた。それがなんで今になって。もしや彼も歳を取って、わがままになって、ジブリとしての作品を出すというより、徹底的に自分の趣味にこだわった作品を作り、ジブリの誰もその暴走を止めることができず、その代わり応援もしないということで、鈴木プロデューサーも手を引いたのだろうか。だから宣伝されていない。

 

ところが、次のシーン、正確にはある屋敷の玄関に入った時、僕の予測はすべて裏切られた。

 

さて、この辺で自己紹介をしておこう。このブログを読んでいる人の大多数は僕のことを知っていると思うが、『君たちはどう生きるか』の感想で検索してたどり着いた人もいると思うので。こうした感想やレビューは誰がどのような視点で書いているかが重要だから。

 

社会小説家とタイトルにあるが、正直のところ、自分の小説のジャンルが果たしてソーシャル・フィクションというものに入るのかもよくわからない。ただ、最近、『百姓レボリューション』という小説が、アマゾンの経済・社会小説部門でベストセラーの1位を獲得したので、一応、そうしたジャンルに含まれているのだろう。もうひとつの代表作である『天上のシンフォニー』はスピリチュアル・アドヴェンチャー小説だ。スピリチュアルを題材とすることは得意としている。

 

『百姓レボリューション』シリーズにはスピリチュアルな側面もあるが、どちらかというとそうでない部分での社会変革的な要素が大きい。社会小説というジャンルがより適切だと思う。

 

『天上のシンフォニー』は、『聖なる予言』、『アルケミスト』などのスピリチュアル系の小説が日本にはほとんどなかったので、そういうものを書こうと思って書いた。ただ、その時に気を付けたことがある。それは、show, not tellという概念。つまり、「伝えるのではなく、見せる」ということ。その手の小説にありがちなのが、tellの部分が大きいということ。

 

伝えたいメッセージが主になっていて、物語や構成が貧弱なもの。

 

そこで、物語、登場人物、舞台設定などに徹底的にこだわった。どちらかというと、純文学よりもエンターテインメント系のほうが物語展開は面白いと感じていたので、エンタメ系を参考にしたり、あとはハリウッド映画だ。

 

もちろん、それでいて小説だったので、tellの部分も映画に比べるとたくさん入っている。メッセージが主になってはいけないが、ぼやけてしまってもよくないと思っていたので。

 

映画やアニメだとメッセージ性があっても、象徴的なものが多く顕在意識に残らないということもある。

 

顕在意識に残り過ぎると説教じみたものになり、潜在意識のみだと、忘れられてしまうので、結局のところ読後の行動には結びつかない。

 

実は、このバランスを取るのが非常に難しいのだ。

 

『百姓レボリューション』でも、このバランスは常に考えて書いた。

 

つまり、僕の小説の書き方は、ただのストーリー・テリングではなく、ある種のメッセージをどのように物語に組み込み、表現するかを専門としている。

 

宮崎駿監督はshowの天才だと思っている。深遠なメッセージ性がありながら、それを一切語ることなく、映像で見せていく技術。映画は小説よりも必然的にshowの部分が増えると言ったが、その中でも宮崎監督ほどそれを巧みに表現している人は他に知らない。

 

例えば『スター・ウォーズ』も象徴的な神話として有名だが、こうはならない。

 

『君たちはどう生きるか』でも、壮大な世界観を、それだと意識させることなく、視聴者に体験させていく。

 

冒頭のシーンからは『風立ちぬ』を思い起こさせられたと言ったが、その後の展開は違い、『もののけ姫』、『ナウシカ』、『ラピュタ』、『千と千尋の神隠し』のようなファンタジーの世界に入り込んでいく。

 

しかも、旧作を遥かに超えたレベルで。不思議の世界に入り込んだと思ったら、またそこから別の世界に迷い込み、何がどうなっているのかわからず、先が一切読めない展開。

 

これには本当にたまげた。

 

そして、絵としても充分楽しめた。

 

屋敷の玄関に入った時と言ったが、ジブリ映画の魅力のひとつが、こうした場面場面のディテールがしっかりと描かれているところだろう。そのスタイルは最近、新海誠監督やスタジオ地図の作品でも見られる。『君の名は』では、三葉の家の襖など、日本家屋の細かい描写がうまく描かれていて、同様の古民家に住む身としては、ついつい細かい部分に目が行ったのだが、実物を見ているかのようだった。『サマーウォーズ』でも大きな屋敷が描かれ、その描写も綺麗だった。

 

そんな最近の経験を経た上で見た『君たちはどう生きるか』に登場する大屋敷の玄関は、半端なかった。そうだよな。これがジブリだったんだよな、と思わずつぶやきたくなるほど、あのワンカットだけですでに視聴者を虜にしてしまうパワー。

 

というか、あれ、本当に一般の人が住む屋敷なのかね。寺でしょ。近江商人の大屋敷でもあそこまでのものはなかなかない。

 

日本家屋の大屋敷の横になぜか洋風の家が建っていて、主人公たちが生活するのはこの洋館なのだが、ここの描写がまたジブリらしいのだ。ジブリといえば洋風なメルヘンチックな世界がひとつの売りだ。『ナウシカ』も『ラピュタ』も『魔女の宅急便』はもちろんのこと、聖蹟桜ヶ丘が舞台になっていると言われる『耳をすませば』にも、洋風な建物でバイオリンを弾く人たちの場面が出てきたりと、洋風建築の描写も美しい。

 

『トトロ』や『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』などで和の美しさも表現されているので、『君たちはどう生きるか』で和の世界と洋の世界がコントラストに描かれたのはジブリ・ファンにとってはたまらない。

 

ジブリファンへのオーマージュ的作品とも言われているが、あえて洋風の館を和風の屋敷の横に建てたのにはファン・サービスもあるのだろう。

 

そしてもちろん、メッセージ性おおありの作品だったが、そこをあのような摩訶不思議な世界にして描いてしまうというのが、やはり宮崎駿監督なのだろう。

 

ネタバレになってしまうし、あえて何も知らずに観たほうがインパクトが強いと思うので触れないが、『天上のシンフォニー』や『百姓レボリューション』ファンにとってはきっと気に入る作品になると思う。

 

つまり、ポスター、予告編、前評判など関係なく、観に行ったほうがいい作品だ。

 

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夏の定番は琵琶湖でのスイミング。

 

前記事で4年前の今頃サティシュ・クマールさんとシューマッハーカレッジでお会いしたという話をしたが、そのシンクロ的なストーリーは、

『日本の里山からイギリスの里山へ』の16章「シューマッハーカレッジで起きたシンクロニシティ」に書いてある。

 

さて、『百姓レボリューション』がアマゾンの経済・社会小説部門でベストセラー1位を獲得した記念に、百レボ関連トピックについて書いている。

 

前記事はこちら

 

 

その中で、自助、共助、公助の3つの形があると言った。そして、エコビレッジにしてもローカルネットワークにしても、そうしたコミュニティづくりは共助的であると。

 

エコビレッジとローカルネットワークの違いはこちら。

 

 

そして、そもそも自助が整っていないうちに共助的な活動は難しいと言った。

 

だから、まずは自助からで、田舎暮らしの例ならば、ひとり田舎暮らし(家族も含む)からだと言った。

 

とはいえ、コミュニティや人とのつながりはあったほうがいい。

 

そして、共助的でないコミュニティの作り方もあると言った。

 

飲み会などを中心に集まるということ。

 

これは、別に珍しいことではなく、そもそも友達付き合いとうのはそういうもの。一緒に遊ぶ。飲みに行ったり、映画を観たり、山に登ったり、海に行ったり。若い頃はそうした友人関係があったはず。

 

何の目的もなく、ただ一緒に遊ぶためだけの関係。

 

そこには何の義務も生じなかった。

 

とはいえ、ある程度の年齢になると、ただ遊ぶためだけに集まるというのも、これまた難しい。さすがに50代、60代になって、出会ったばかりの人に今度一緒に海に行こうとは誘いにくい。すでに友人関係が成立している場合はともかく。

 

そこには何らかの理由付けが必要で、目的が必要だ。

 

そこで、『自然派バイオハッキング』で提案した自然派バイオハッキング・コミュニティがちょうどよく機能すると思う。

 

以下、本文より

 

………………

一番手っ取り早いのがコミュニティをつくることです。コミュニティと言っても大げさなものではなく、一緒に食事をしたり、断食したり、運動したり、温泉に行ったりする仲間のサークルです。やはり、こういうことは、一人で実践し続けていくには、強靭な意志が必要になります。一緒にする仲間がいるのといないのとでは、大きく差が出ます。運動も一人ではつい面倒くさくなってしまっても、友達と約束していれば、やらなければなりません。断食も、一人よりは何人かで一緒にやったほうが、頑張れます。友達と会う時も、相手だけ食事する中自分だけ食べないというのはつらいですが、相手も断食中なら、二人ともコーヒーだけにするなどということができます。食事の内容もそうです。特定の食事法を実践すると社交生活が狭まってしまいますが、同じ食事法を実践する仲間が増えれば増えるほど、その食事法に基づいた夕食会などが開きやすくなります。

 

生きがいダイエットでは、週末をハレとし、ご馳走を食べてもいいとしていますが、これはブルーゾーンでもそうだからです。毎週末というわけではないですが、時々家族や親せきが集まってハレの食事をします。それが彼らの生きがいになっていて、長寿の秘訣にもなっているのです。ブルーゾーンには九つの要素があって、その一つが、「所属意識と社交生活」です。
 

今は大家族や親せきで集まることは普段はあまりなくなったので、代わりに友人サークルでそれをしたらどうかという提案です。週末は肉などを食べてもいいと言いましたが、基本は自然食です。つまり、放牧牛や平飼い鶏などで、野菜はオーガニックで、穀物は全粒粉です。となると、それらを食べても構わないという仲間でないと、一緒にできません。
 

生きがいという観点では、こうした人のつながりは非常に大きな位置を占め、まして価値観が近いとなると、ブルーゾーンのもうひとつの要素「いい影響を与え合う仲間と関わる」にもつながっていきます。
 

つまり、自然派バイオハッキングでつながるコミュニティをつくることは、健康と長寿に大きく役立つということです。
 

僕は、基本的に集団があまり好きではなく、組織や団体などはなくていいと思っています。自然派バイオハッキングに関しても、個人が独立していることが鍵で、変な意味でのグループにはなってほしくないという思いがあります。ただ、今挙げたメリットと併せて、社会に働きかけていく上でも、ネットワークやコミュニティはあったほうがいいと思います。特に少数派の場合、多数派のプレッシャーに打ち勝つには、仲間が集まって結束したほうが、力が強まります。政治家でもメディアでも、その集団がどれだけ大きいかで態度を変えてきます。あなたの周りに十人しかいないのと、千人いるのとでは、大きく変わってきます。
 

もちろん、千人規模のコミュニティをつくる必要はありません。定期的に会って一緒に食事をしたり運動したりする仲間は、十人前後でオーケーだと思います。多すぎても、いろいろなことがやりにくくなりますから。普段は会わなくても、実践する仲間とはSNSなどでつながり、より大きなネットワークにするといいということです。
 

そして、できればローカルがいいです。つまり近くに住む人同士でつながっていく。距離が近いほうが実際に会いやすいというのと、物々交換型のコミュニティにも発展させやすいからです。
 

地方に住んでいると必然的にそうなります。そういう意味でも地方移住を勧めます。大都市の場合、どうしても距離よりも価値観を優先させ、ネットワークが広範囲になることが多いです。僕が東京に住んでいた時もそうでした。それでも、後半は意識的にエリアを狭めようと国立近辺で活動しました。すると、面白いことに何人かが移り住んできたのです。田舎への移住は結構ハードルが高いですが、都市内での移住は、勤務先を変えなくてもいいので、実現させやすいのです。
 

まずは自分の家で食事会をするのがいいですね。土曜の夜、日曜の昼などに生きがいダイエット流の料理をつくり、友人、知人を招待する。あなたの家まで来られる人となると、必然的に近場の人になります。メニューを説明する時になぜそういう食事をしているかを話せば、自然な流れで伝えられます。そうした食事会を定期的に開催していく中で、次は一緒に山に登ろう、ノルディック・ウォーキングをしよう、サウナに行こうなどということになっていきます。毎回自分が料理を全部つくるのではなく、慣れてきたら持ち寄り形式にしてもいいです。
 

遠くに住む仲間には、自分の家で同様の食事会をすることを勧めればいいです。場合によっては、食事会と食事会をZOOMでつなげてもいいですし。時々遠方で開らかれる食事会にも参加したりして行き来すれば、基本はローカルで活動するグループがたくさんできていき、それらが大きなネットワークでつながっていくという形ができます。
 

この方法は、どんな環境運動や社会運動よりも効果的だと思います。社会を変えようと躍起になって、特別なことをしなくてもいいのです。ただ友達を作って楽しむだけ。健康にいいこと、長生きできる方法をお互いに伝え合いながら遊ぶと。気功に詳しい人がいたら教えてもらい、HIITやスタビリティ・トレーニングに詳しい人がいたら教えてもらい、納豆や酵素玄米のつくり方を知っている人がいたら教えてもらえばいいのです。畑を一緒に借りてやってもいいです。身体的な健康だけでなく、メンタルの最適化や次章で触れるスピリチュアルな最適化などを含めれば、遊びのネタはたくさんあります。今祝いパーティーをやってもいいですし。

………………

 

詳細は本のほうを。

 

『自然派バイオハッキング:日本の里山で発酵させたシリコンバレー発の長寿健康法』

 

この方法がいいのは、あくまでも自助が中心になっているということ。自分の健康という、ある意味では自己中心的な目的のために集う。

 

やはり、いきなり公的な目的のために集うというのは難しい。食料危機回避のために、日本の里山を守るためにと言って声をかければ、意識の高い人しか集まらない。そしてそこまでの意識の高い人はなかなかいない。

 

いたとしても、勝手に理想だけ高くなっていて、自助すら整っていなく、最初の数か月はいいが、いずれそのことに気づいて続かないというパターンが大半ではないだろうか。

 

身の丈レベル。

 

まずは自助から、そして、その自助をやりながら結果的に共助につながるような工夫をシステムに埋め込むことが、最小限の労力で、最大の結果を生み出す鍵ではないかと、最近は感じている。

 

ただ、それも含めて正解はない。解決策はひとつではなく、様々な活動が相互に絡まり合っていくことで変化は生まれていくのだと思う。

 

なので、つまるところ、自分がどうしたいかだ。

 

エコビレッジ型コミュニティ

ローカルネットワーク型コミュニティ

自助を中心とした自然派バイオハッキング・コミュニティ

ひとり田舎暮らし

ひとり地方都市暮らし

ひとり郊外暮らし

その他

 

と、いろいろな形があっていい。

 

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4年前のちょうど今頃、シューマッハーカレッジでサティシュ・クマールさんにお会いしたのだった。

 

イギリス、また行きたいな。

 

日本の田舎暮らしとイギリスの田舎暮らしの違いが知りたかったらぜひこの本を。

 

さて、『百姓レボリューション』がアマゾンの経済・社会小説部門でベストセラー1位を獲得した記念に、百レボ関連トピックについて書いている。

 

前記事はこちら

 

 

エコビレッジにしてもローカルネットワークにしてもコミュニティには変わりない。そして、中にはコミュニティづくり自体、ハードルが高いという人もいるだろう。

 

まずは、個人レベルでの田舎暮らしからと。

 

それをひとり田舎暮らしと呼ぶことにしよう。実際には、一人だったり、2人だったり、子連れの家族だったりというパターンがあるが、家族単位の田舎暮らし。

 

コミュニティづくりに発展するとしても、まずはこのパターンから始まるのが普通だ。

 

そして、中には、特に周囲の人たちと関わることなく、ずっとひとり田舎暮らしを続ける人たちもいる。

 

本格的なサバイバルとなると、何らかの周囲との関係があったほうがいいし、コミュニティ田舎暮らしのほうが安心だろう。

 

昨日も防災士が集落に来て防災についての説明があったが、自助、共助、公助という3つのパターンについて教えてくれた。

 

自助というのは、備蓄等をしてまずは自分の身は自分で守る努力をすること。共助は、隣近所、集落単位で助け合って避難活動をしたりすること。公助は役場、消防署、病院など公の助けを得ることだと。災害に関していえば、いちばんものをいうのが自助、次が共助、一番効力を持たないのが公助だという。なぜなら公助が始まるのは通常数日経ってからだからと。

 

この時の共助に影響するのがコミュニティだと思う。もっとも、田舎で暮らしている場合、集落での共助関係があるので、エコビレッジは影響しても、ローカルネットワーク型のコミュニティの場合、あまり影響しないかもしれないが。

 

ただ、長期的なスパンでの共助には影響してくるだろう。つまり、地産地消型の食料生産態勢を地域レベルで作り上げる時に、ひとりでは何もできないが、ネットワークを組むことでできることが増える。オーガニック給食を学校に導入してもらう働きかけも、個人ではおそらく話を聞いてもらえなかっただろうが、何十人もの集団で、行政や教育委員会に話を持ち掛けたことが大きかった。

 

とはいえ、共助の活動というのは口で言うほど楽ではない。自分のことで忙しく、そんなことをしている余裕はないのだ。みんなそれぞれ自分の畑、田んぼ、家の修理などがある中、例えばローカルネットワークで備蓄米用の田んぼをやろうなどということになっても、誰にもそんな時間はない。

 

そして、もうひとつ、それぞれ集落との付き合いがあるということは、共助的な活動にはすでに年間何日も割いていて、それプラスなどとなるとまず無理だ。

 

なので、どっち派も何も、実際問題ひとり田舎暮らしをするだけで精一杯だろう。

 

特に日本の場合は。

 

実は、この問題についても深く掘り下げてあるので、

 

この本をぜひ読んでもらいたい。

 

田舎暮らしを15年ぐらい続けた今現在の僕の解決策は、むしろこちらに書いてある。

 

 

ただ、共助的な活動をしなくても、飲み会などで集まるだけというネットワークの持ち方もできるので、負担をかけずにつながることは充分可能だが。

 

そう、一緒に田んぼやろうとか、古民家改修しようとかなると集まらないが、飲み会なら集まるのだ。(笑)

 

あとは性格にもよるだろう。内向的な人で孤独を楽しめる人と、常に人との交流がないと耐えられない人の場合は違ってくる。

 

そういう意味ではやはりどっち派というのはあるのかもしれない。

 

その辺も含めて無理せず、自分が心地よく感じるスタイルを選べばいいと思う。

 

大変動時代を生き抜く上での解決策になるかどうかは何とも言えない。でも、世の中を変えることなんてそう簡単にできることではないので、まずは自分が幸せになることが先決だ。自助ができてこそ初めて共助ができるので。

 

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今年2回目の琵琶湖スイム。今度はゴムボートも。

 

1回目の琵琶湖スイムについては下記記事を。

 

 

アマゾンの経済・社会小説部門では1位から脱落してしまったが、ネクパブ総合売り上げランキングでは今週も1位を維持。

 

※集計期間:2023/7/23~2023/7/30

 

<総合ランキング>

1位 百姓レボリューション(販売価格2500円)

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2位 ブランディングの教科書 ブランド戦略の理論と実践がこれ一冊でわかる(販売価格2200円)

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3位 第16回全国高等学校情報教育研究会全国大会(東京大会)(販売価格2000円)

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4位 投資ど素人が投資初心者になるための 株・投資信託・つみたて NISA・iDeCo・ふるさと納税 超入門(販売価格1580円)

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5位 重曹ががんを消す!:「がんアルカリ療法」の基礎と実践法(販売価格1600円)

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ということで、今日も百レボ現象と大変動時代の生き方の続き。

 

小説では、コミュニティというのがひとつの鍵で、読者の中には自分もコミュニティを立ち上げたいと思っている人も多くいるだろう。コミュニティといっても形態はいろいろあり、エコビレッジと言われる共同生活型のコミュニティから、僕がローカルネットワークと呼んでいる、地域内で独立した個人がネットワークを組んでゆるくつながっていくコミュニティまでいろいろある。

 

エコビレッジも厳密には定義はいろいろで、共同生活型もののみを指すわけではない。

 

ローカルネットワークも、自然発生的にできあがっているものから、ある程度意図的に作り出したものなど種類は複数ある。

 

一般に意図的に作り上げたものをインテンショナル・コミュニティというが、多くのエコビレッジはインテンショナル・コミュニティで、ローカルネットワークは半々ぐらいの割合でインテンショナル・コミュニティとそうでないものがあるだろう。

 

トランジション・タウン運動はインテンショナル・コミュニティのいい例で、何人かの有志が集まって始めている。

 

トランジションタウンというのは、持続可能な社会に移行するための市民運動で、地域内にグループを立ち上げて活動することが多いため、ローカルネットワークになりやすい。

 

トランジションタウンについては、その発祥の地であるイギリスのトットネスでの滞在記である『日本の里山からイギリスの里山へ―田舎暮らし親子の夏休み』に詳しく書いてある。

 

 

日本の状況はこちらを参照。

 

ローカルネットワーク日野も、有志が集まって意図的に始めたので、インテンショナルといえばインテンショナルだ。ただ、最初の3年はそうだったが、途中から何もせず、メンバーが個々に勝手に動き大きくなったので、自然発生的な要素が強い。

 

 

自然発生的なローカルネットワークのいい例は、誰が始めたわけでもなく、ある場所に半農半X的な暮らしをする移住者が多く集まり、何となくネットワークができあがったような場所。

 

共同生活型のコミュニティのいいところは、仕事も共同でする所が多いので、前記事で言及したフリーカンパニーのように、職場そのものを新しくすることができること。

 

事業内容自体を新しい時代に即したものにできたり、職場での人間関係にも新しいパラダイムをもたらすことができる。百姓レボリューションの例でいえば、対等な関係を持つようにしたり、アサーショントレーニングを導入したり、コーチング的な社員教育を導入したりできる。

 

仕事以外の時間の生活空間にも新しいパラダイムが導入でき、小説に出てきた多くのことを試みるには、この形態のほうがやりやすい。

 

一方で、集団生活というのは難しく、現実にそうしたエコビレッジをつくろうとしてもなかなかうまくいかない。その辺も小説に描かれているが。あそこまで極端な状況(といっても現実にも似たようなことは起きたのだが)はまれだとしても、複数の人間で物事を決めていくことの大変さは、多くの人が経験しているのではないだろうか。

 

そこが共同生活型コミュニティの課題点と言える。

 

一方、個人が独立しているローカルネットワークの場合、個々のことは個人が決めるので意見の調整を図る必要がない。田んぼをやるのかやらないのか、野菜は何をつくるのか、山はどうするのか、自給自足の割合をどのぐらいにするのかなど、すべて自分、もしくは家族で決めればいいことだ。

 

ただ、こちらの難点は、相互扶助的な要素が減り、仕事においても、生活空間においても新しいパラダイムを導入しにくくなること。

 

例えば、個人で半農半Xをする場合、Xの部分がバイトだったりすることはよくある。バイト先は、普通のお店、工場、会社などであることが多く、職場は従来のものと変わらなくなる。

 

もちろん、共同生活をせず、仕事だけ共同で行うという方法もあるが。

 

もうひとつ、個人で田舎に移住する場合、多くは集落でのコミュニティに所属しなければならず、そこでの人間関係に苦労することもある。

 

ところが、集団で移住する場合、その集団でひとつの自治会機能が果たせるので、エコビレッジ自体がひとつの集落のようになることも可能だ。

 

結局のところ、それぞれ一長一短でどちらがいいとは言えない。

 

そして、もちろん、これも人による。エコビレッジが合った人もいればローカルネットワークが合った人もいるだろう。

 

『百姓レボリューション2』には2つの違いが対照的に描かれている。百姓ビレッジ栃木や百姓ビレッジ東京に引かれるのか、あるいは百姓ビレッジ滋賀に引かれるのかでも、自分がどちら向きかがわかるだろう。

 

あなたはどちら向き?

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『百姓レボリューション』がアマゾンの経済・社会小説部門でベストセラー1位を記録したことを記念して百レボ現象を考える。

 

前回の記事はこちら。

 

 

では、新たな大変動時代が訪れていると思われる今後数年間をどう生きればいいのか。


それは人によると思う。

 

個々によって生き方は千差万別で、変化の対応の仕方も多様であっていいと思う。

 

『百レボ』で描かれているようなライフスタイルを希望するのなら、それは全くオーケーだと思う。

 

自然農、もしくは有機農で自給自足型のコミュニティをつくっていく。

 

コミュニティといっても形態はまちまちで、いわゆるエコビレッジのようなものから、ローカルネットワークのような地域内でネットワークを組み、ゆるくつながっていくものまでいろいろあるだろう。

 

そしてもちろん、それを選択しなくても構わない。

 

ひとつ言っておきたいのは、『百レボ』ではあくまでもひとつの未来の可能性を描いたに過ぎない。あの時点で複数の未来が予測できたが、その中で、貨幣経済が完全に崩壊し、石油が一切入ってこなくなり、政府機能も途絶えるという究極の状況をあえて設定として選んだ。そのほうが小説として面白いからだ。ただ、経済が半分廃れ、石油や他の動力源も完全にはなくならず、政府も続いているという未来も起こりえたし、実際に起きたのは後者だ。なので、現状では多くの場面で『百レボ』のようにはならない。自然農が主流になったのは肥料が手に入らないという設定だったからで、すべて手作業というのも動力が使えないという設定だったからだ。また、すべてが人口が大幅に減ったという設定で構築されていて、今のように1億人以上もいる状況では対応策が大きく変わってくる。

 

今現在の食料危機に対応するには、自給自足型のコミュニティだけではきびしいだろう。1億人以上の人口を賄うには、農業全体をどうするかということを真剣に考える必要がある。

 

執筆当時の2010年ごろは、僕の農業に関する知識や経験も限定的だった。自然農や有機農だけで、一般的な農業、いわゆる慣行農業というものや、JAの役割を含めた各農村地域でどのような農業が営まれているかまでは詳しく知らなかった。そのことも、物語で描かれている農業のあり方が限定的である理由だ。また、人口が大幅に減り、農地もすべて自由に使えるという設定で、すべてを一から作り上げることができた。

 

今のようにすでにある農地を引き継ぐ、各地域に入り込んで農業をする場合、地域とのつながりなど、さらなる課題が出てくる。

 

もっと危機的な状況になったとしても、1億人全員が自給自足的な暮らしに移行することはまず考えられないので、そうなると、自給自足は成立しなくなり、他の人のぶんまでつくる農家が必要になってくる。そうなると、ある程度の規模で機械を使った農業を継続していく方法を考える必要がある。

 

つまり、自給的な小規模な農をする人たちだけでなく、大規模な生産者を減らさず、どう増やしていくか。

 

生産者、消費者、地方自治体が協力して方法を考えていかなければ。

 

幸い、ここのところのオーガニック給食の活動で生産者、行政などと対話を重ねたので、その辺の理解は以前よりずっと深まった。そうそう、日野町では10月から試験的にオーガニック給食が始まることになった。まずはひとつの小学校だけでの実施だが、月一で計38回の有機米の提供ということなので、悪くないスタートだ。

 

学校給食に提供するとなると、そこそこの規模が必要になり、当然機械で行う。稲作の場合、夏の除草が一番大変になるので、機械除草のノウハウが鍵になってくる。これは同時に、有機農で新規就農したい人のモデルケースにもなりうると思う。

 

今までの半農半Xはどちらかというと小規模な自給農で手作業というイメージが強かったが、そこに新たな形態が含まれないと、今増え続けている耕作放棄地を引き継ぐことはできないだろう。

 

その上で今、より現実的だと思うのは、『自然派バイオハッキング』で紹介した里山都会構想だ。人口分布を高度成長期以前の状態に戻すこと。つまり、田舎から都市への人口の移動を逆にすること。

 

 

 

 

 

 

 

 

大都市から田舎への大々的な人口移動が必要で、そのためには田舎暮らしが主流にならなければならず、主流になるためにはもう少し裾野が広がったほうがいい。半農半X、スローライフと言われるようなライフスタイルだけでなく、より多形態の田舎暮らしが普及したほうがいいと思う。

 

そこで、不可欠なのはITを利用した仕事の仕方で、田舎で暮らしながらリモートで仕事をするというライフスタイルの普及。その時、そうしたハイテク的なことはGAFAMの世界であり、あちら側だと全面的に拒否してしまうと難しくなる。

 

ゼロか100かと考えるのではなく(考えてもいいけれど)、使えるものは使うというスタンスのほうが選択肢が広がり、いろいろなことがやりやすくなる。

 

例えば、僕はアマゾンのKDPというプラットフォームを利用して本を出版し、販売している。あのアマゾンで思う人もいるだろうが、KDPというプラットフォームは多くの個人に出版の機会を提供している。KDPがなければ、ごく一部の作家のみが本を出版できるという従来の状況が続いていただろうし、大手出版社、取次、書店という流通システムの枠組みがすべてをコントロールしていただろう。

 

YouTubeもそうだ。グーグル社のプラットフォームでやはりGAFAMの一部。しかし、どれだけの無名の個人がYouTubeを通して表現の機会を得ただろうか。YouTubeがなければ未だに既存のマスメディアが社会を牛耳っていたことだろう。

 

すべてが白、黒に分かれているわけではない。

 

むしろ、そうした世界をすべて拒否し、自分は田舎で独立して自給自足することを多くの人が選択した場合、かえってあちら側にとって都合がよくなるということもありうる。

 

これは、軍需産業に資金提供している銀行に預金すべきでないという議論に似ている。ポリシーとしては素晴らしいが、効力を見た場合、多額の資金を持っている人ならともかく、そうでない人の場合、その人が口座を閉鎖しても銀行にとっては全く影響がない。

 

僕らが仮に数万人規模でアマゾンやグーグルを使わなくなっても、その何倍もの規模で新たな利用者が誕生している今、そこで得るメリットより、情報発信の機会を失うというデメリットのほうが上回る気がする。

 

もちろん、疑問を持つことはいいことで、GAFAMを含む巨大企業集団の言いなりにならないということも必要は必要だが。

 

まあ、この辺はすべてそれぞれの選択肢に寄る。『百レボ』で小野寺隆が言っていたシステムに依存するということは、それに巻き込まれやすくなることも事実で、そうした誘惑に弱い人は、システムから独立したコミュニティ、あるいは独立した個人の生活を選ぶことは充分ありだと思う。

 

特にワクチンパスポートのようなものができた場合、既存の職場には勤められないという人も出てくるだろうし、そうなると百姓ビレッジのようなエコビレッジ兼勤務先のような場所があると防波堤になる。

 

子供たちにフリースクールがあるなら、大人にもフリーカンパニーがあってもいい。


人によって生き方が変わってくると言ったが、年齢によってできることが変わってくるし、得意、不得意によってもできることは変わってくる。

 

僕がなぜ農的暮らしに力を入れなくなったかは、まさにそれが理由だ。農的暮らしを始めたのが40代後半で、50代半ばほどで限界を感じた。

 

ひとつは自然農でやったのだが全くうまくいかず、ほとんど収穫できなかった。もちろん、やり方が間違っていたというのもあるのだが、ひとつは土の問題だった。自然農では土づくりに時間がかかるとも聞いていたし。ところが僕には時間的猶予があまりなかった。

 

もうひとつは、もともと不器用で、農業を含め、大工仕事や道具使いなどが苦手だった。紐を結ぶことなどは最悪だった。はっきり言って向いていないと悟ったのだ。普通の人の3倍は作業に時間がかかった。

 

僕のような人間が農に関わっていることの意味が見いだせなかった。5年以上やって進展が見えないということはそうなのだ。

残りの人生をどう生きたいかを真剣に考えなおした。そこでたどり着いたのが前から好きだった執筆業だった。

 

大変動を、単にサバイバルとして捉えるのではなく、ひとつの周期の最終段階にあると捉えた場合、意味合いが変わってくる。どんな過去性を送ってきたかでも、できることは変わってくる。

 

自分の集大成として農的暮らしをするのが使命なのかと考えた時、答えは違った。

 

今まではよかった。農的暮らしという経験が必要だった。この経験が自分のミッションに役立っているわけだし、だからこそ『百レボ』も書けたのだ。農的暮らしがあったおかげで、生きがいダイエットや自然派バイオハッキングを編み出すことができた。

 

農的暮らしの役割はここで一旦終了し、これからは本業に専念したいと思っている。

 

もうひとつ本業だと感じているのが英語での情報発信で、日本人にはできる人が少ないので、日本の里山文化やスピリチュアリティを英語で海外に向けて発信することが集大成としてのミッションだと感じている。

 

だから、

 

それでも、家庭菜園レベルの農的暮らしは続けているし、生活の基盤は里山にある。

 

もちろん、都市での生活を選ぶことも構わないと思っている。

 

『自然派バイオハッキング』では、農山村移住、地方都市移住、大都市郊外移住の3つの選択肢を提案している。

 

そうそう、健康でいることも重要。感染症予防だけでなく様々な病気の予防にもなるので、自然派バイオハッキングは多くの人に勧めたい。

 

 

健康というのは身体的にだけでなく、ボディ、マインド、スピリット、プラネットに働きかけるので、まさにこの大変動時代を生き抜く上で役立つ。

 

実は、GAFAMの話をしたが、シリコンバレー発のテクノロジー文化が小野寺隆がシステムと呼ぶものとリンクすることはまんざら嘘ではないと思っている。

 

まんざらね。ゼロか100じゃなくて、ある部分は、ある程度は。

 

そして、自然派バイオハッキングはそれに対抗するために作り出したのだ。

 

納豆もそう。Natto Unleashedは解き放たれた納豆という意味だが、納豆菌を解き放ったのも、それが理由。

 

帝国の逆襲ではなく、菌たちの逆襲、あるいは菌たちの帰還か。

 

まあ、いずれにしても、まだ読んでいない人は『百レボ』3部作を読んでもらいたい。その上で、今の自分にどのような生き方が相応しいかを考えるといい。きっと何かヒントが見つかると思う。

 

百レボ
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東京、青山にあるブッククラブ回という書店に『百姓レボリューション』シリーズ、『生きがいダイエット』、『自然派バイオハッキング』、『大変動時代を生き抜く完全サバイバルマニュアル2』が置いてある。

 

ちなみに、書店で置いてあるのはここだけ。一部京都、滋賀のお店にはあるかもしれないけど、書店はここだけ。

 

実は、ブッククラブ回さんは特別な書店なのだ。

 

スピリチュアル系書店なのだが、青山一丁目駅近くにあり、僕が昔少しだけ勤務していたことがあったセミナー会社の近くで、当時からよく行っていた。当時というのは1992年ごろかな。

 

僕の本を置いてもらうようになったのは、2008年に出した『大変動時代の完全サバイバルマニュアル』から。

 

そう、前回の記事に出てくる例の本。

 

 

ちなみに、その本はもう絶版になっていて、『大変動時代を生き抜く完全サバイバルマニュアル2』は2011年の3.11後に書き直した続編。

 

近くに行ったらぜひ立ち寄ってください。

 

 

『百姓レボリューション』がアマゾンの経済・社会小説部門でベストセラー1位を記録した記念に、百レボ現象についていろいろ考えてみたい。

 

前回の記事はこちら。

 

 

では、僕は、今の時代をどう見ているか。『百姓レボリューション』を出したのは2011年、『百姓レボリューション2』が2012年、『百姓レボリューション3』が2014年末で、あれからすでに10年近く経つ。

 

これまた単純ではない。

 

というところで前回は終わった。

 

百レボを書いたのは2010年のことで、その前に『大変動時代を生き抜く完全サバイバル・マニュアル』を2008年に書いている。つまり、大元は2008年に始まっている。

 

2008年に何が起きたかというと、リーマン・ショックだ。そして、これまたリーマンショックが起きる1ヶ月ほど前に本を出している。(『百レボ』は3.11のちょうど1ヶ月前)

 

なぜ、いつも直前なのだ。せめて半年ぐらいの準備期間があればいいのに。

 

そんなこと言われても、リーマンショックが起きることも、3.11が起きることも知らなかったのだから仕方がない。

 

僕は経済や金融の専門家ではないし、金融界で何が起きているか、詳しい情報は持ち合わせていなかった。

 

では、なぜ書いたのか。

 

『大変動時代を生き抜く完全サバイバル・マニュアル』に関しては、頼まれたからだ。

 

当時知る人の間では知られていた、能力者のような人から。

 

これから世の中大変なことになる。それに対処するための本を書いてほしい。

 

もっとも、正式な依頼ではなかった。僕は『天上のシンフォニー』という小説の著者として紹介されその方に会ったので、当然話題は次に書く作品の話になって、どうせ書くなら、そのような題材の本を書いてほしいと。

 

僕としても、大地震が来る、経済が崩壊する等の危機感をあおるだけで解決策が書かれていない本が当時多かったので、解決策に主軸を置いた本は書く価値があると感じた。

 

そして、僕自身が東京を離れ、田舎に移住しようと様々な情報を集めていたので、それがまるまる執筆に役立った。

 

本の出版と同時に栃木に移住し、農的暮らしを始めた。

 

そして、2年後に『百レボ』を書いたわけだが、これも、僕が日々体験していた農的暮らしや、自然農の学び、エコビレッジ等の取材活動がそのまま題材を提供し、それらをまとめていくとあんな話になってしまったのだ。

 

3,11後に滋賀に移住し、今度は滋賀で田舎暮らしをし、今に至る。

 

つまり、田舎暮らしを始めてから15年経つわけで、始めた頃の新鮮味はない。

 

2008年から2010年ごろの僕だったら、『大変動時代を生き抜く完全サバイバル・マニュアル』や『百姓レボリューション』に書いた内容に、実生活という部分でも大きく興味を持っていた。

 

つまり、2008年と2011年の大変動においては自分の意識がそこにあったのでより真剣に受けてめていたけれど、2023年においては、どこか距離を置いて見ているので、実際に起きていることが同じ、もしくはさらに深刻であったとしても、あまり深刻には感じていない。

 

実は、ここが重要だと思う。自分が今どの立ち位置にいるのか。それによって同じ現実でも見え方が違ってくる。

 

結局のところ、事実というものも、解釈する意識状態によって影響を受けるので、絶対的なものではない。

 

もうひとつ、ここ数年の長寿健康法の情報収集においてわかったことは、科学的データと言われるものでも、相反するものが複数あったり、データのどこに着目するかで解釈が変わってくるということ。

 

世の中はこうなっている、ということも複数の可能性があり、ひとつの解釈が正しいということはないと思う。ましてこれからこうなっていくという予測に関してはなおさら。

 

僕が今感じている感覚では、『百レボ』で描いたような経済崩壊は起きない気がする。つまり、貨幣経済がすべて破綻し、石油も一切入ってこなくなるというような事態。

 

多くの人が失業したり、経済が悪化することはあっても崩壊にまでは至らないと。

 

2008年の時もそうだったし、2011年、そしてそれに続く2012年の時もそうだった。当時はみなが終わると感じていたのに。

 

もっとも、これにはそうした過去の体験と併せて自分の感情も含まれている。そうなってほしくないのだ。子供を育てていると、どうしても安定志向になる。2011年以降僕の意識が変わった要因のひとつが子供を授かったことで、そのような状況で社会が明日にでも終わるかもしれないという思考は持ちたくなくなった。

 

もっとも、経済崩壊=終わりではないし、百レボでは、変化であり、新しい時代の始まりとして捉えられている。

 

それをふまえて考えた時、いろいろなことが入り混じった複合的な未来になるのではないかと感じる。一部食料危機は起きるだろう。食料自給率の低い日本は大きく影響を受けるだろう。コロナのようなパンデミックが新たに起きるかもしれない。起こされるのかどうかまではわからないけれど。一方でIT化は進むだろうし、AIやメタバース的な世界もどんどん広がっていくと思う。その中での覇者は入れ替わっていくと思うが。GAFAMの時代がいつまでも続くわけでもないと。

 

ただ、ここにも純粋な二元論では語れない部分があると思う。あれはあっち側で、これはこっち側というような見方。あっち側と思える中にもこっち側があったり、こっち側だと見えるものでもあっち側だったりすることもあれば、今現在どちらか側でもいずれ変わるかもしれないし、どちら側でもないものや、どちら側でもあるものなどいろいろだと思う。

 

あるいは、ある部分ではこちら側だが、別の部分ではあちら側だったり。

 

あるいは、そもそもあちら側の役割って何なんだということにもなってくるし。

 

その辺も、『百姓レボリューション2』『百姓レボリューション3』でより描かれている。

 

では、僕らはこれからの時代どう生きればいいのだろうか。

 

それについてはまた次回。

 

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『百姓レボリューション』がアマゾンの経済・社会小説部門でベストセラー1位になったと昨日伝えた。

 

もともと、2011年に出版されたもので、なぜここに来て急になのかについて考えてみたい。

 

もちろん、ここまでの広がりはなかったものの過去に何度か一部の人たちの中でのブレイクはあった。

 

2011年の3.11以降の時期が1回目。

 

2015年、3部作が出そろった時が2回目。

 

その後も小さなピークはところどころであった。

 

ただ、去年ぐらいから継続的にブレイクが続いている。

 

昨年11月にも社会小説分野で4位になっている。

 

 

今年の前半に売れ行きが落ちたのにはアマゾン側で手違いがあったからだ。ペーパーバックの表記がカレンダーになっていて、それを修正してくれと依頼してから修正されるまで数か月もかかったのだ。その間のブランクに本来ならもっと売れていたはず。

 

ここで言いたいのは、去年から今年にかけてという社会的な背景が影響しているのではないかということ。

 

下記の再生回数45000もある動画で紹介されたことも大きいのではないかと言われている。

 

そして、動画配信者のライフコーチかめちゃんという方は、まさに今の時代を予見しているのではないかと思ったと言っている。そのことは他の読者からも何度も言われてきている。

 

今の時代?

 

今の時代、つまり、去年から今年にかけての時代、あるいは、2020年ごろから始まったコロナ禍を含む激動の時代を指しているのだろうか?

 

激動と感じるかどうかは、人によって見えている世界が違うことだろう。

 

そこで何を指して激動なのかについて考察してみたい。

 

その前に、『百姓レボリューション』を読んだことのない人のために、まずどんな話かを。日本とアメリカを同時に大地震が襲い、経済も崩壊してしまう。貨幣経済が消滅し、石油は日本に入ってこなくなり、政府自体がなくなってしまう。暖房も食料もない中、真冬の寒さに耐えられず大多数の人口が命を落とす。

 

生き残った人たちは、自給自足をし、協力し合いながら手助合うことのできた人たちだけ。

 

そして、自然農を中心とした自給自足型のコミュニティが日本全国にいくつもできていく。各コミュニティがひとつの国として機能し、日本が何百となる国に分かれるというイメージだ。

 

自給自足というのが、今の時代の解決策として見られているのだろう。ウクライナ戦争などから食糧や燃料費、その他もろもろが高騰しているが、いずれ世界的な食糧危機を迎え、そうなると、食料の大部分を輸入に頼っている日本は真っ先に影響を受けるという危機感からだろうか。

 

自給自足だけでなく、メディアや教育などあらゆる分野で新しい国の形をつくっていく。「日本国消滅、始まった新しい国づくり」というサブタイトルからも、これが国づくりの物語であることがわかるだろう。

 

食料危機に対応するといった表面的な話ではなく、根本的に社会を建て直す、建て替えるという話で、そのビジョンに共感が生まれているのだと思う。コロナ禍を含む激動の時代といったが、2020年を境に、いわゆるグレート・リセットが始まった気配があり、一部のエリートたちによって、ある方向に地球全体が誘導され、どうやらそれは富裕層には都合がいいが、貧困層(中流階級の人たちもじきにここに加わる)にとってはそうでなくなる、と感じ取っている人が多くいるからだ。

 

つまり、『百姓レボリューション』に描かれた国づくりがグレート・リセットに対抗する手段であると。

 

ライフコーチかめちゃんという方は、『百姓レボリューション』が3.11を予見した話だと思われているが、それよりもむしろ今の時代を予見しているように感じると言っていた。

 

真相はどちらでもない。3.11も予測していないし、コロナ禍も予測していない。

 

ただ、いわゆる大変動、あるいは大峠という言い方もされているが、スピリチュアル系世界で長年信じられ続けてきている、日月神示の世の立て直し的な考え方や、西洋ニューエイジ思想から来る、水瓶座の時代へのシフト、5次元へのアセンション、先住民の第6の太陽に時代への移行などは背景にあるので、その時期や具体的な形は別として、ここ数年多くの人が感じ取っている社会の動向を言い当てているとしてもおかしくはないだろう。

 

もっとも、そこを深く掘り下げているのは、むしろ第2巻と第3巻だが。つまり、『百姓レボリューション2』と『百姓レボリューション3』

 

世の中、そう単純ではない。裏の裏があり、そこを通り過ぎないと、本当の光は見えてこないだろう。

 

では、僕は、今の時代をどう見ているか。『百姓レボリューション』を出したのは2011年、『百姓レボリューション2』が2012年、『百姓レボリューション3』が2014年末で、あれからすでに10年近く経つ。

 

これまた単純ではない。

 

なので、また別の時に。

 

いずれにしても、『百姓レボリューション』シリーズはぜひ3部作読んでもらいたい。全体的な国づくりの形が今の時代の解決策になるかどうかはわからないが、様々な事柄をテーマとして扱っているので、サバイバル以外にも、人間関係、組織づくり、人間の心理など、何かしら今の生活に通じる部分があると思うので。

 

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『百姓レボリューション』アマゾンでもベストセラー1位。

 

昨日ネクパブオーサーズプレスにて出版された本の中での総合売り上げランキングで1位になったと言ったが、アマゾンの経済・社会小説部門でも1位になっていた。

 

これは画期的なこと。百田尚樹とか池井戸潤とかベストセラー作家を押し抜いての1位なのだから、ネクパブとはまた意味合いが違う。もちろん、1位になることなど意識してこなかったし、『百レボ』では主人公の一人に「1位になってはいけないんです」とまで言わせているぐらい、僕はもともと順位だとか学歴とかブランドなどには一切関心のない人間だった。

 

とはいえ、小説家になることを目指した男なので、もちろんベストセラーということに全く関心がないと言えば嘘になる。

 

特に、今の自分としてはこの結果を充分嬉しく感じられる。もちろん売れればいいというわけではなく、世の中にベストセラーと言われるものでも全く中身のないものも山のようにあって、それが判断基準にならないことは今も変わらない。

 

心に響くか、響かないか。すべてはそこが基準。

 

ただ、売れているということはそれだけ多くの人に読まれているということで、新村ケンや小野寺隆などの主人公が広く認知されてきたということで、作者として彼らを世に出せたという、責任を果たせた感がある。

 

そうなのだ。僕はともかく、彼らのためにも嬉しい。そして今まで応援してきてくれた数多くの人たちのためにも。

 

『百レボ』の世界観が、ここにきてようやく、一般に受け入れられてきたということなので。

 

まずは、応援してきてくれた人たち、そして読んでくれた人たち、本当にありがとう。

 

このようなすごい紹介のされ方もしている。

 

 

 

 

『百姓レボリューション』