8月15日になると必ず話題になるのが靖国神社。誰々は参拝し、誰々はしなかったなど。では、そもそも論として、参拝した人たちはみな神道を信じているのだろうか。
今日は巷の議論とは全く別の角度から神社について考察してみたい。
いや、どうしようかと思ったのだが。かなりタブーになる話だから。文化的にも、スピリチュアルという観点からも、たくさん反論が来るかもしれない。でも、非常に大事な話で、日本が生き残るためには避けては通れない話。今までこの話を誰も取り上げなかったのが不思議だ。でも、その理由もわかる。だからこそ、誰かが取り上げなければ。そして、これまた不思議な偶然なのだけれど、これを書くうえで必要な体験がもたらされた。
よりによって、2025年の今年、世界が変わろうとしているこのタイミングで、氏子総代の役が当たるなんて。
■神社は里山の中心だ
■自治会の仕事の半分は神社関係
■神社と稲作
■信仰の自由はあってないようなもの
■神社は神社庁の配下にある巨大な組織宗教だ
■神社がなくなったら過疎化は弱まる
■農業にはAIが使われるようになるのか
■神社解体こそがディープステートの陰謀?
■僕は必ずしも神社がなくなったほうがいいと思っているわけではない
■日本を守るための交換条件とは
■なぜ神社とお寺の2つがあるのか
■2025年8月15日から新しい時代が始まった
■神社は里山の中心だ
田舎に来るまで神社がここまで日々の生活に関与しているなど全く知らなかった。自分の氏神様がどの神社かも知らずに育ち、神社といえば一年に一度初詣に行くだけの場所だった。
ところが、農村集落では、各集落に神社があり、そこが集落の氏神となっている。集落の住民はみなそこの氏子であり、神社を管理し、守っている。例えば僕の住んでいる集落では、元旦祭、春の大祭、秋の大祭という年3回大きな祭り(祭りというのは神道儀式のこと)があり、毎月1日には月次祭がある。神社は決して年に一度初詣に行くだけの場所ではなく、一年を通しての関りがある。祭りの開催は集落の住人で行い、準備から片付けまですべてを担当する。持ち回りで役を担当していくのだが。氏子総代というのは氏子の代表で、そうしたことの一番の責任者だ。神社会計にも携わる。そう、神社はタダではない。祭りには神主さんに来てもらって祝詞を上げてもらうのだが、謝礼が発生する。毎月の月次祭もだ。建物が壊れた時には修繕もしなければならない。氏子たちで。場合によっては一軒百万などということもある。建物はどこも老朽化しているので、これはどこも差し迫った問題だ。つまり、神社を維持するには労力とお金がかかる。
■自治会の仕事の半分は神社関係
各集落には自治会があり、集落を維持するために様々な業務がある。祭りの前には必ず神社掃除があり、それ以外にも春の総出と夏の総出という集落全体の草刈りや掃除がある。他にも運動会、日待ち、地蔵盆などいろいろあるのだが、それらを取りまとめていく役員が毎年選ばれる。区長、副区長、公民館分館長、農業組合長、そして氏子総代の5役だ。ただでさえ年間いろいろやることがあるのに、役員になればさらに時間が拘束される。
ゆえに、誰も役員にはなりたがらない。とはいえ、人口が減少している今、該当者が少なくなっている。同じ人たちが数年に一度は何らかの役を受けて回していくのが現状だ。
実は、これ自体が人口減少の原因のひとつになっている。
そして、自治会の業務の半分が神社関係なのだ。
■神社と稲作
では、神社は何のためにあるのだ。もちろん、神社とは神道の聖域で、宗教的な様々な意味合いがあるのだろうが、祭り等儀式の主な目的は豊作祈願だ。つまり、農村集落において神社の役割は豊作祈願をする場所で、昔はみなが農家だったので、集落の中心的な場所としてみなされていた。
ところが近年農家の数は減り、我が集落でも非農家の数のほうが農家よりも多い。もちろん、氏子は農家、非農家に関わらず全員なるので、非農家も神社を守っていく。
当然、何のためにやっているのだという疑問は生じてくる。豊作祈願? そもそも、これって効果あるの? なら、なぜ不作の年があるのだ。祈願は毎年同じようにやっているのになぜ効かないのかと。科学的な根拠はどこにもない。科学的根拠などもともとなかったが、昔(今役員をやっているアラ還世代の親の時代)は信仰があったから科学などどうでもよかった。しかし、僕らの世代にはそこまでの信仰心はないし、これだけの労力とお金を費やすとなると、それなりの科学的根拠を求めるようになってくる。そのお金があったら肥料等に費やしたほうが効果的ではないかとか。
■信仰の自由はあってないようなもの
もし、信じていなかったどうなるだろう。ここで生まれた人は自動的に氏子になるので、人生のある段階で自分で選んで神道を信仰するようになったわけではない。親がそうだったから、家がそうだったから、必然的にそうなっただけだ。神道の考え方に納得がいくので自分から進んで信じるようになったわけではない。
中には、人生のある段階で自分で選んで宗教を信じるようになった人たちもいる。通常別の宗教だ。創価学会員など。そういう人たちの中には神社行事には携わらないことを選択している人たちもいる。
憲法で保障されているので、もちろん神社行事を強制することはできない。
日本国憲法第二十条
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
僕自身、実のところ、家ということでいえばキリスト教だ。父親がクリスチャンだったので。ただ、5歳の時に父が亡くなり、母親はクリスチャンではなかったので、そのまま我が家は無宗教になった。僕は現在、自分なりに信じているものがあるが、それはキリスト教でも、神道でも、仏教でもない。つまり、神道を信仰しているわけではない。が、別に神道を否定しているわけでもない。なので、集落の役として誰かがやらなければならなかったことだし、いい経験にもなると思い、引き受けた。
ただ、これが宗教である以上、信じるのか信じないのかははっきりさせたほうがいいと思う。氏子の一人一人が。ただ伝統だから、しきたりだからという理由で意味もわからないのにやるのはおかしな話だ。
2025年は真実が明るみになる年だと聞いている。建前でなく本音で生き、自分の信じる道を生きるように多くの人が転換する時だと。
僕としては、半年関わった段階で、神道を信じるかどうかと聞かれれば信じないほうを選ぶだろう。それは、神道のすべてを信じないということではない。神社はいわゆるレイラインと言われるようなパワースポットに建てられているのかもしれないし、祝詞などには意味のあるものもあるかもしれない。ただ、細かい儀式や作法を形式通りにやらなければならないということについては、僕がこれまで探求してきたスピリチュアリティとは異なるものだ。
■神社は神社庁の配下にある巨大な組織宗教だ
氏子総代を務め、少しずつ神社の組織がどういうものなのかわかってきた。自分たちの神社は神主も誰もいない小さな神社だが、神主のいるより大きな神社の管轄にあり、その神社は滋賀県神社庁の管轄にあり、滋賀県神社庁は神社本庁の管轄にある。全国8万社ある巨大な組織の一員だ。組織には様々な規則があり、それらはいつの間にか決まっていて、我々のような一氏子集団はただそれに従うだけだ。月次祭をやめたい、それ以外の儀式を簡素化したいと思っても、集落で勝手に決められることではない。あるいは、決められることなのか。
戦前は国家神道だったが、今では形上、民間になっている。ただ、これだけ全国規模で展開していて、しきたりの多くは戦前から続いてきている。神社本庁は日本会議の主要メンバーであると言われている。日本会議といえば安倍晋三をはじめとする自民党政治家との関係が取りざたされているが、ここが政教分離におけるグレーゾーンだ。統一教会があれだけ問題視されたのに、なぜ誰も神社本庁について騒がないのか。
■神社がなくなったら過疎化は弱まる
自治会の仕事の半分が神社関係だと言ったが、仮に神社がなくなった場合、自治会の仕事はかなり簡素化される。過疎化の原因は他にもいろいろあるが、リモートワークなどが普及してきた今、都市を離れて田舎で暮らそうと思えばハードルはかなり下がった。自治会が唯一の足かせだとしたら、それが簡素化されることで、移住を決意する人は増えるはず。また、地元の若者で、留まる人も増えるだろう。
地方の過疎化問題は日本国という国の深刻な問題で、農業人口が減り、食料自給率が下がっている原因でもある。食料自給率を上げるには、農村地域の人口を増やす、少なくとも高度成長期以前の状態に戻す必要があり、自治会の問題は死活問題だ。伝統のどうのこうのと言っていられない。このまま行ったのでは消滅する。10年後なのか、20年後なのかはわからないが、いずれは維持できなくなる。先送りにすれば先送りにするほど修復が困難になる。
■農業にはAIが使われるようになるのか
人口を元に戻すといっても、必ずしも昔の共同体を復活させると言っているわけではない。これからの農業は、より少人数で、ある程度集約された大規模農業になるだろう。機械化され、AIなどを駆使し、ところどころ水耕栽培やハウス栽培も導入したもの。これには賛否あるだろうが、現実的に考えて従来の集落農業には限界が来ている。例えば異常気象ひとつとっても、露地栽培だけでやっていくのはかなり無理がある。平野部なのか中山間地域なのかによって状況は異なるが、農業人口が元に戻ることは考えにくいので、必然的に規模は変わってくると思う。つまり、人口が戻ったとしても、従来型の集落共同体の形は変わることになるだろう。
そうなると、そもそも論として、集落の中心に神社があってという形もなさなくなるのではないか。もちろん、それでも神社が必要だと思う人たちがいて、集落のみながそれを望むのなら、そうすればいい。ただ、それをする上でも、一度ゼロにし、新たに作り直したほうがいいのではないか。ただ意味も分からずだらだら続けるのではなく、神道という宗教を信じるのか、信じないのかを各自が決められる機会を設けること。信じたとしても、家にある神棚で拝むだけではダメなのか、なぜ、 神社という場所が必要なのかをもう一度考えてみるといい。
■神社解体こそがディープステートの陰謀?
こういうことを言うと、おまえはディープステートの手先なのかと思う人もいることだろう。神道こそ日本の魂で、日本人の力の根源だと。それを解体することで日本人の底力は弱まり、彼らにとっては好都合だと。その可能性はゼロでないと僕も思う。
では、日本のスピリチュアリティを壊そうとしているのはGHQやディープステートだけなのだろうか。僕には、組織宗教としての神社庁神道が、本来の霊性から日本人を遠ざけているようにも思える。
全国の様々な場所で多くの人がいやいや神社維持に携わっていることが集合的にどのような波動を生み出しているか。彼らが自由になり、自分が心の底から信じられることに意識を向けられるようになったら、魂にどのような変化が訪れるか。
■僕は必ずしも神社がなくなったほうがいいと思っているわけではない
僕だって、文化という観点では神社はあったほうがいいと思うし、神社と鎮守の森というのは日本の里山の原風景だ。スピリチュアルという観点でも神社があることでいいことはたくさんある。しかし、信仰は強制されるものではない。もちろん、誰も強制されてはいない。でも、暗黙の了解で半ば強制的になっている。結局のところ、スピリチュアリティというのは個人的なものだと思う。それが国家的なものになったり地域的なものになったりして、その構成員に半ば強制されるような状態が健全ではないと思っているだけだ。
神道は多神教であり、ある意味自然に即したものだと思う。しかし、聖域の場所から、建造物の建て方、祈りの作法や捧げものの捧げ方まできめ細かい決まりがあり、それが正解とされている。上から示されているもので、個々が自分でたどり着いた結論ではない。例えば神様に礼をする時は90度と決まっているが、ここには確実に上下関係が存在している。
■日本を守るための交換条件とは
日本を守るというスローガンは最近政治家がよく使う。国防に対しては方法論で意見が分かれるだろうが、多くの人が一致しているのは食料自給率を上げること。いざ戦争となった時、食料の輸出をストップされたらそれで終わりだからだ。実際、第2次世界大戦中、連合国は戦略としてドイツへの食料の輸出をストップした。
本気で食料自給率を上げようと思ったら、時代に即したものに変えなければならない。しかし、その時足かせになっているのが伝統を守ろうとする気持ち。そして、不思議なことに、日本を守ろうという人に限って伝統も守ろうとする。いや、これは保守、リベラル関係なく、伝統は守らなければならないという考えは根強く残っている。しかし、その2つは両立できない。すべては交換条件で、あることを始めたら、あることをやめなければならない。両方やろうというのは欲張りだ。欲張りというより、どっちつかずになり、結局両方とも崩壊する。
神社そのものに問題があるというより、昔からのしきたりを続けていることに問題がある。明らかに時代に即していないとわかりつつも変えられない仕組み。組織が大きすぎて変えられない。同じことがあらゆる分野の日本社会で起きていて、そこを変えないともう社会がもたなくなってきている。これは決して田舎だけの問題ではない。
食料自給率を上げるうえでも経済を成長させるうえでも、今日本で一番必要なことは、あらゆる仕組みを時代に即したものにアップデートすることだ。ここまで非科学的な国は世界的に見ても少ない。伝統にしがみついていることこそが日本を弱体化させているとは思わないのだろうか。
■なぜ神社とお寺の2つがあるのか
こうした矛盾のひとつが神仏融合の文化。これこそが和の精神でありと、通常は肯定的に評価されている。異質のものを受け入れられるから日本人は平和的だと。仏教が入ってきた時、敵対することなく、受け入れたと。(実際には争いもあったが)その結果どうなったかというと、両方を信仰することになった。先ほど神社の行事を執り行う労力と出費の話をしたが、あそこにはお寺は含まれていない。僕は檀家ではないので、お寺のことはよくわからないから。でも、多くの家ではそこにお寺の行事が合わさる。費用も倍になる。建物が老朽化したら各家で修繕費を出し合うといったが、お寺も同じだ。時期が重なったらそれだけで家計を大きく圧迫する。自分の家の屋根を修復するお金がなくなる。
では、2つやることで効果は倍になるのだろうか。神社だけにお参りした時と、お寺でもお経を唱えた時と加護には差があるのだろうか。
いっそのこと、神道と仏教で争い、敗者がその地域から追い出されるという歴史だったほうが楽だったのではないだろうか。
もちろん、信じている人はいい。神道も仏教も信じているという人は。しかし、正直信じているかどうかわからないけれど、伝統だから守らなければならないという理由だけでやっている人にとっては負担が大きすぎる。
すべては交換条件だといったが、伝統を維持するための出費は、別の何かを削ることで生み出される。しわ寄せがいくのは子供たちだったりする。子供たちの教育費やいろいろなことを体験するための費用が削られるのだとしたら、日本の将来は誰が守っていくというのだ。
なぜ、神仏融合が起きたのかわからない。古いものを手放すことができない性質がそうさせてしまったのだとしたら。実際、集落の行事には、新しいものが始まっても、古いものもそのまま残っていたりすることがよくある。
縮小、簡素化はできても廃止にはできない。廃止にしてしまうと何か大切なものが壊されてしまうという強迫観念がどこかで働いている。
■2025年8月15日から新しい時代が始まった
2025年8月15日から新しい時代が始まったという人もいる。それについては何とも言えないが、今回こうして思い切って氏子総代としての経験を書いたのは、日本人の精神性の中心にあるからこそ、逆にこれについてしっかり考えることが必要だと思ったから。正解はない。解体することがいいかどうか僕にはわからない。では、観光資源はどうなるのだという意見も出てくるだろう。すべての儀式を廃止にするのではなく、月次祭だけ廃止にするという考え方もある。それも含めてみなで考え、話し合うことが大事だ。日本人としてどうしていきたいのか。そしてこれは必ずしも国として統一しなければならない問題でもないと思う。地域ごとに異なる選択をしてもいいのではないだろうか。