人生というものは、自らが刻む一行一行の中に、永遠があるものである。自らが綴る自省録の一行一行の中には、永遠の真理があるのである。故に、自分の自省録を大切にしなければならない。


 永遠不滅の哲学書と共にある時に、己が精神は、永遠のイデア(理念)の哲理によって、限りなき高みに飛翔してゆく。それは、格調高い幸福である。


 このように、哲学的幸福とは、極めて格調高い知的幸福なのである。そこには、確かな品格があるのである。この学問的品格というものを大切にしてゆけばよいのである。


 人類の歴史の中で受け継がれてきた哲学的古典の中には、永遠普遍の学問的品格があるのである。こうした古典に親しむことを通じて、哲学的にも、品格ある知性を磨き上げてゆかなくてはならない。


 まずは、哲学書をしっかりと読み込みながら、自ら思索を為して、自らの自省録を綴ってゆくことである。そこから、さらに、哲学的なコラムを綴ってゆけばよいのである。こうして、自分自身の思索の断片を、その都度、結晶化してゆくのである。


 永遠普遍の哲学の中で培われた自己の精神もまた、必ず、永遠普遍の精神となってゆくのである。故に、倦まず弛まず、哲学の大道を歩みつづけてゆくことである。さすれば、自ずから、大いなる道が続いてゆくことであろう。


 常に哲学的精神と共に歩みつづけた人生の過程そのものが、人生の宝石である。真なる哲学は、常に自己の精神を磨きつづけ、輝かせつづけるのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

   


 幕末維新の志士達の物語というものは、歴史小説として、司馬遼太郎によって様々に描かれている。『竜馬がゆく』や『翔ぶが如く』『世に棲む日々』『燃えよ剣』などである。


 『翔ぶが如く』の中で描かれているように、アメリカの独立革命とフランス革命の根本にあったものは、ルソーの『社会契約論』であり、中江兆民を通して、明治日本にも翻訳され、日本の思想界にも、政治経済にも影響を与えているのである。


 西洋社会に最も影響を与えたものは、聖書と、ルソーの『社会契約論』であるというのが、司馬遼太郎の世界観なのであり、それはまた、史実なのである。


 この中江兆民をフランスに遣り、ルソーの『社会契約論』の翻訳出版に協力したのは、大久保利通である。

 

 『翔ぶが如く』では、早稲田大学創始者の大隈重信も志士の一人として活躍している。大隈重信は、教育者である以前に、志士として活躍しているのである。


 そして、福澤諭吉の慶應義塾は、日本資本主義を学ぶ学塾であったとしている。さらに、坂本龍馬や西郷隆盛や吉田松陰や木戸孝允を発見することは、司馬遼太郎の小説の悦びである。


 夏目漱石に並ぶ文豪としての魅力が、司馬遼太郎の作品にはあるのである。それは、英雄の境涯を描く力量であり、人々を理想的偉人の境涯に導く力があるのであり、それはまた、ルソー的時代精神・世界精神へと導く歴史小説でもあるのである。


 かの三島由紀夫もまた、志士として殉死したのかもしれない。安倍晋三元首相も、そうかもしれない。まさしく、「一粒の麦、もし死なずば」である。


 このように、志士達の志は、後世の人々の糧となってゆくのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 


 


 哲学的に思索してゆくということは、宗教的実在としての神仏を概念的に認識するということでもある。ヘーゲル哲学の『小論理学』の根本は、このような神の概念的認識にあると言えるのである。


 それは哲学であるから、その過程は、限りなく合理的であり、概念的思索の積み重ねである。しかし、概念的に思索されているからこそ、そこには哲学的な安定性があるとも言えるのである。


 このような哲学的な理性的判断力は、自らに精神的余裕を与えて、合理的思弁を与えるものである。理性の観点から考えて、明らかに不合理なこと、不条理なことを、一つ一つ、吟味判断することが出来るようになるのである。


 哲学というものは、たとえどのような書を読んだとしても、自ら主体的に考えることから始まるのである。主体的な思索の積み重ねこそが、真なる哲学的営みである。一つ一つの現象に対して、そこから導かれた所の自らの思索を、一つ一つ、吟味判断してゆくことである。


 このように、自ら主体的に考えるということを習慣にしている人にとってこそ、真にモンテーニュもエマソンも活きてくるのである。福澤諭吉もルソーもそうである。


 日々、理性的に生きてゆくことである。それこそ、学問の本分であり、哲学の本分なのである。


 このように、哲学的に概念的に神を認識するということは、理念(イデア)の源としての神を認識することである。


 カントは、このような認識が果たして可能か否かについて消極的であるが、ヘーゲルは積極的である。ヘーゲル哲学において展開される所の神学的宇宙は、それが哲学的合理的である分、学問的であり、安心出来るものであり、理性的な吟味批判の対象となるものである。


 このように、魂や精神や神仏を認識しないような西洋哲学というものは、本来ないものなのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)