哲学を学ぶことは、永遠普遍の徳を修めることである。真なる智慧を求めることこそが、哲学の本質であり、学問の本質なのである。
例えば、セネカの哲学であっても、格調の高い美しさのある文章である。それは、古代精神というよりも、現代的である。セネカの哲学によって、己が魂を高尚に高めてゆけば、自らも哲人となるのである。
このようなセネカ、エマソン、ショーペンハウアーなどの哲学に親しみ、自らの自省録(日記)を記してゆくことである。そして、それを「哲学的コラム」などの作品へと結晶化してゆくことである。
日々、哲学者として善く生きることである。一日一生である。日々、真なる哲学書に親しむことによって、自らも哲学者の如き精神へと成ってゆくべきである。
「人間の精神は、常に自らが慣れ親しんでいる精神の色合いになってゆく。」とは、かのマルクス・アウレリウスの言葉である。
永遠普遍の哲学書には、不動の品格がある。人格の高潔があるのである。それは、歴史の中で培われていった偉人の魂そのものである。
日々、コツコツと哲学的生活を続けてゆくことである。一日一生として、哲学的思索をなして、その都度、文筆してゆくことである。
このような一日一日の積み重ねが、大きな仕事となってゆくのである。一行一行の思索の過程が、後世への遺物とも成ってゆくのである。
知的生活こそ、人間の本質的生き方である。哲学的生活の中に、永遠普遍の人生の宝があるのである。
久遠実成のイデアの宝庫こそ、哲学書の本質である。それは、己が魂を永遠普遍の実在へと成す確固とした大道である。価値不動の哲人の道に参入することこそが、魂の普遍の栄光なのである。
天川貴之
(JDR総合研究所・代表)