いつもながら思うことであるが、カント哲学の思索の過程と、その道徳哲学、形而上学の核心部分は、既にルソーの「エミール」において述べられているのではないかと思う。
カントは、人間の精神には、自己の良心によって啓示され、立法された道徳法則に従う自由と、それを知る理性能力があり、これらが「実践理性」と名付けられている。
ルソーやカントが説くように、自己の良心によって啓示された法に従って生きることは、天来の要請である。
このように、天が我々人間に与えた自己の理性に基づいて思索し、天が与えた自らの内なる光によって思索されたものこそが、真なる哲学書となり、思想書となり、政治経済の書、芸術の書となり、宗教書ともなってゆくのである。
自分自身に与えられた内なる理性の光によって思索し、光の法則を、理法を発見してゆくというのが近代以降の道徳哲学の幹であるし、それはまた、古代ギリシャ・ローマ哲学の再発見でもあるものであった。
人間には魂と肉体がある、というのは当然のことで、魂は魂の法則を持ち、神の摂理、天上の摂理の内に息づいているものであり、明白な形而上学を形成しているが、それはまた、自らの内なる良心と理性、及び知識の導きによって発見創造されるものでもある。
このように、近代のルソーの哲学、すなわち「エミール」の思想は、かのモンテーニュと同様に、古代哲学の理想とも合致してゆくのであった。
ルソーが述べたように、確かに、イエス・キリストの生と死は神の生と死であり、聖書というものは決してフィクションによって創られるものではない。
それを前提とした上で、ソクラテスの説いた「汝自身を知れ」という命題を掲げながら、一人一人が、自らの内なる理性によって、主体的に、自己の哲学思想を築いてゆくのである。
by 天川貴之
(JDR総合研究所・代表)