人間が詩文を愛するということは、魂の調べというものが人間自身の魂の内に実在するためであろう。

 

 詩歌を愛する時、私達は心を慰められる。そして、生きている充実をそこに見出す。そして、詩歌によって、人生そのものが昇華されてゆくのである。


 また、哲学においても、そこにその方の人生が言葉の中に結晶化されて、永遠の生命を持つものとなり、その哲学自体によって、人生そのものを達観し、昇華してゆくのである。


 故に、詩歌や哲学に見出されるものは、昇華されたその方の生命の息吹であるということが云える。人間は、詩歌や哲学思想の中に、過去の普遍的自己を発見する。そして、それを魂の糧として、永遠の生命を輝かせて、深き味わいのあるものへと成しゆくのである。


 人は、思索してゆく限り、達観しつつも、かつ迷うものである。しかしながら、迷いがありながらも、学びつづけ、思索しつづける限り、魂は、向上発展してゆき、限りなく止揚されてゆくのである。


 深く切なる自分自身に対する問いかけは、必ず、自分自身への応えとして返ってゆく。そして、その応えが、自分自身にとって、かけがえのない詩歌となり、哲学思想となってゆくのである。


 このように、人は、問いつづけてゆけば、必ずや、無限無数の答えが見つかり、それを土台として、さらに前へ進んでゆくことが出来るのである。


 人間は、時に、今までの自分自身の人生や実績に対して自信が持てなくなったりすることもあるけれども、過去の自分が遺してきた詩歌や哲学をつぶさに見直してみれば、自分が今まで歩んできた道に、確固とした自己信頼を取り戻してゆくものなのである。


 このように、自分自身が、日々、学び、思索しつづけているということ自体が光の営みであり、希望そのものなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)
 


 語学の習得に励むということだけでも、語学センスを向上できるのである。語学の習得を通じて、言葉に対するセンスを磨きつづけてゆくということも大切なのである。


 例えば、洋楽に親しむということ一つであっても、それは趣味の領域を広げるということであると同時に、自らの語学のセンスを磨くことにもなるのである。


 このような形で、語学は楽しいという習慣を形成してゆくことも大切である。語学をやっている人の頭は錆びないと云われるが、語学を磨きつづけるということは、真なる教養人としてのたしなみの一つであるとも言えるのである。


 また、詩的センスであっても、この語学の延長線上にあるとも云えるのであり、こうした詩的感覚を磨きつづけてゆくこと、文学的感性を磨きつづけてゆくこと、美学感性を磨きつづけてゆくということは、芸術家にとっては必要不可欠な営みであるのである。


 その上で、法学や、政治学や、経済学や、物理学等の様々な分野をも学び、思索してゆけば、その方の人生観、世界観はさらに成熟し、充実したものになってゆくことであろう。


 その意味において、真なる芸術家とは、己が教養レベルを高めてゆく生活をしてゆかなければならないのである。本物の詩人、本物の歌人、本物の小説家というものは、己が教養レベルを日々高めてゆかなければ、本来、務まらないものなのである。

 

 故に、一編の小説であっても、それを書いた小説家の背後にある教養レベルを考察しながら、味わってゆくのもよいであろう。


 また、天来の個性的才能というものも、倦まず弛まず蓄積された教養レベルの高さによって、さらに育まれてゆくものなのである。

 

 例えば、ただ単に、良心が、感性が鋭いだけでは、かのアウレリウスの『自省録』や、ルソーの『告白』や、倉田百三の『青春の息の痕』等の青春三部作は綴れないものなのである。


 このように、真に自己の教養レベルを高めてゆくことこそが、その芸術家の人格の安定を育んでゆくことになるのである。

 

 

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 


 


 「一日一生」の気概をもって生きることは、とても大切なことである。一日を完全燃焼しようと思って、正念を立て、それを持続することは大切なことなのである。


 たとえ一見平凡に観えるような一日であっても、倦まず弛まず教養の書、真理の書を一冊一冊読み込んでゆき、思索してゆけば、気がつけば、かなりの高みに昇っているということも、まぎれもない事実なのである。


 故に、理性と良心を眠りから覚まさせるような良書を選択し、自らの眼を正眼となし、慧眼と成してゆくことである。そして、あらゆる物事の本質を洞破してゆき、あらゆる物事の肝心を道破してゆくことである。


 たとえ小さな真理であっても、それを深く究めてゆけば、大いなる力を発揮してゆくものである。あちらこちらに小さな真理は埋もれているのである。そして、それらの真理は、あなた方に発見されることを待っているのである。


 故に、慧眼をもって、様々な智慧の種子を発見見性していっていただきたい。そうして発見した種子を、自らの思索によって、さらに大きく育み育てていっていただきたい。


 どのような真理であっても、それを発見するのは一つの見性体験である。自らの内なる真理が、外なる真理を発見してゆくのである。内に目覚めた理性の眼が、外なる理念的真理を発見思索してゆくのである。


 そのためには、まず、真理を発見するのである、という正念を打ち立てることである。さらに、その正念に正精進を引き合わせてゆくことである。


 真理の書はもちろんのこと、真なる教養の書というものは、一冊一冊、その内に深い真理を秘めているものなのである。さらに、そうして発見した真理を一つ一つつなげて統合してゆくことである。


 時間はあなた方の味方なのである。日々、倦まず弛まず努力精進を重ねてゆけば、必ず、誰でも立派な哲学者となれるのである。一人一人が、哲学者となっていただきたいのである。


 まずは、ささやかな真理を、本で発見してもよい。自己の体験にて発見してもよい。また、自己の思索の内に発見してもよいのである。そこから、大いなる真理への道が始まるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)