真に哲学者に近づいてゆくためには、洞察の時間を、孤独の静かなる境地の内に確保することが、まず大切である。


 どのような哲学書を読もうとも、そこから得られる喜悦は、理性的実在としての悦びであり、それは、あらゆる感性的な欲望を超えたものである。


 そして、その中から、知的洞察と内省を通して思索された断片を軸にして一つの随想を綴ってゆくということは、知的生産の王道である。こうしたことを、日々、積み上げてゆくだけで、一冊の哲学書が出来てゆくのである。


 故に、これまで出版した本のすべては、自己の思索する精神の軌跡であるとも言える。また、哲学書、思想書については、当然、知的遺産であり、人生の道標である。


 本来、本を出版するということは、かのスピノザ、デカルト、ルソーなどをとっても分かるように、生命賭けのことであり、勇気が要ることである。それによって失うものもあれば、得られるものもあるのである。


 故に、一冊一冊の書物の中に、その哲学者・思想家の魂と志が込もっているのである。並大抵の根性では、一冊の本も仕上げられないのである。


 しかし、知的生産物を倦まず弛まず創造し続けて、一定の実績を積んでゆくと、それは決して誰でも出来るようなものではなくて、確かに偉人の生産物であると、客観的に位置づけられるようになるのである。


 これは、自然に与えられる名誉であり、精神的地位である。それらを受けた上で、哲学者は、本来、孤独の内に安らぎを見出し、知的思索を、人類の眼として行ってゆくものである。


 非日常の思索空間の中で思索を紡ぎ出し、自己観照の内に、不滅の真理を呈示するのである。

 

 

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 


 


 日々、生活の中で、観想的時間、観照的時間を取り、真理(イデア)を洞察見性してゆくことは極めて大切である。これこそが、哲学をすることの核心なのである。


 様々に流転してゆく現象の内にあって、流転し変化しない永遠普遍の真理(法則)、すなわち、法を認識してゆく者こそ、哲学者である。


 そのためには、常に哲学書を観じ、心を鎮め、精神の内奥から湧き上がってくる所の真理を、自分自身の真理として書き留めてゆくことが必要である。


 あくまでも、読書が中心にあるのではなく、読書を契機とした「思索」が中心にある生活を送ってゆけばよいのである。


 現象の奥にある因果の法則、現象の内奥にある理念(イデア)の実在をありありと観照出来れば、ありとしあらゆる現象が、この理念(イデア)、法則(法)に統べられていることが分かるであろう。


 ありとしあらゆる現象の内にあって、それから超然としているイデアを認識することは可能なのである。なぜならば、それは、現象の奥に発見される摂理であり、また、意識現象の奥に見性される真理であるからである。


 自己の意識現象が純粋になると、その中から精錬された真理(イデア)が自然に浮かび上がってくるのである。もしくは、それは、意識現象を無として、自我を滅却して、無我となり、煩悩を滅却した時に、意識の内奥から顕われてくる所の真実在であるとも言える。


 これこそ、真理の発見、理念(イデア)の見性である。これを「般若の智慧」と言ってもよいであろう。哲人のエピステーメ(真智)と言ってもよいであろう。


 日々、これ瞑想であり、日々、これ見性である。それを積み重ねてゆけば、哲学的知性は実成してゆくのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 


 


 人間は、何故に彫刻を創るのであろうか。それは、無常なる肉体の美を永遠に遺そうとする試みではないかと憶う。


 例えば、かのミケランジェロのダビデ像のように、神々が人間の肉体美として表現されたり、また、哲学者の彫像が創られたり、アスリートの彫像が創られたりするのも、その中に、永遠に遺したいと憶えるものがあるからである。永遠の生命を吹き込みたいと憶えるものがあるからなのである。


 このように、芸術という形式を通して地上に顕現されるものとは、永遠不滅の理念(イデア)としての美なのである。すなわち、永遠不滅の理念(イデア)の美から派生するものとして、この地上の哲学者やアスリートの彫像があるのである。


 そういう意味では、言霊による哲学的営みの本質もまた同じであろうと憶う。日々変転する自らの想いを形にして、永遠不滅のものとして、実在精神として保存しようということである。


 たとえそれが一言一言の「つぶやき」であったとしても、その中にある感情想念は、言葉に出された瞬間に、永遠の不死性を持つようになるのである。言葉とは、本来、そういう性質をもともと持っているのである。


 だから、真なる哲学者の発する一言一言の「つぶやき」は、それがどのようなものであれ、必ず昇華されて、哲学となってゆくのである。


 刻々と変わりゆく現象の中で、永遠不変の実在精神を求め、その実在精神の顕現した真象としての実在現象を、芸術として創造し、永遠化せんとすることは、我々人間の理想探究の大道なのである。

 

 

 

 

 

 

 

  by 天川貴之

(JDR総合研究所・代表)