哲学とは、人生の本質を洞察することであり、人生を貫く真理を洞察することである。


 小説とは、そこに真理の言葉を散りばめる舞台であり、様々な形の人生の舞台でもあるものである。

 

 セリフの一言一言に、光がこもるのである。そこに、世界中の文学者達の光がこもるのである。


 小説の本質とは、人生の洞察であり、深く人生を観るということである。従って、人生の実存の中に、真理を発見して、それを小説の中に顕わしてゆくことである。人生の中の本質を、光として呈示してゆくことである。


 釈迦であっても、イエス・キリストであっても、シェークスピアであっても、ゲーテであっても、トルストイであっても、人類における歴史上の偉人達は全て、真理の光の言葉を遺しているものである。


 真理こそ実在であり、この真理の光こそ、小説の核なのである。人生という舞台の中に、様々な光を創造してゆくことこそ、小説の使命である。


 光のみ実在であり、小説の中で、光を掲げてゆくことこそ、小説家の使命である。

 

 たとえそれが一大光明芸術であっても、そうでなくても、小説の中に光を発見してゆくことである。光の一行一句を発見し、創造してゆくことである。


 小説家が培う全ての教養は、そのための助けとなるものである。どんな人の人生の中にも、宝石のような真理の言葉があるものであり、それを発見し、創造し、表現してゆくことである。


 人生においては、愛のみが真なる実在であり、愛を、小説の如く、自己の人生の舞台の中に様々に創造してゆくことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)
 


 常に自己の原点に帰り、常に自己の原点を探すことである。それは、真に自らの心に響く真理である。時を経ても、真理であり続ける真理である。


 確かに、人類がこれを「古典」としたものは、それは客観的真理であろう。


 しかし、自己の人生をかけて、十年以上、自己の真理と観じえるものがあれば、それは自己にとってかけがえのない主観的真理である。そのために生き、そのために支えられ、そこから無限の心の糧を導くことの出来る心の糧としての真理である。


 このように、最初は主観的真理であったものが、多くの人々の共鳴を受けて、永い時間を貫いて受け入れられた時に、それは普遍的真理(古典)となるのである。


 しかし、自己にとっては、常に生きてゆくための心の糧となる真理が必要である。常に己が心の拠り所となる真理こそが、活きた真理なのである。

 

 そのような真理が、自ら思索して、自らの経験を通して確かめられた真理であれば、自分にとっても一番よいであろう。


 このように、自己の人生の中において、自らの心の拠り所となる真理を数多く探究し、思索し、発見し、創造しえた人こそが、真なる哲人なのである。


 まさしく、人はパンのみによって生くるにあらず、真なる哲人の生命の言葉によって生きるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 


 


 人生というものは、一大光明芸術の舞台であることは真実である。その中に、いかに「光明」を観出しうるかということには、無限の開きがあるのである。


 人生を深く多様に観つめてゆけば、日々、紡ぎ出される一行一行は、全てソネットであり、劇場のセリフである。そして、一日一日が、一場一場の舞台なのである。


 もちろん、それらの全てが人々に観られている訳ではないけれども、どんな言葉、どんな短歌、どんな日記、どんなメッセージであっても、必ず観ている人はいるものである。


 また、後に、何年も経て、それを観て発見する人もいる。自分自身のものであっても、二十年後に再発見してゆくものもあるであろう。


 「哲学」というものの根本テーマが「真理の見性体験」にあるとすれば、人生という劇場の中で、いかに多くの人生の場面における真理を洞察しえたかということ、また、それを自分自身の言葉をもって再表現し、独自の芸術創造を成しえたかということは大きいのである。


 自分自身の人生の中に、あらゆる演劇、あらゆる小説を飲み込んでゆき、消化吸収してゆき、その中から、エッセンスとなるような短歌や、エッセイや、コラムにまとめてゆけば、それもまた、文学的価値の高い作品になることであろう。


 自己の人生において、芸術的価値の高い文学としての短歌や、随想や、コラムを、いかに深く幅広く創ってゆくかということは、全ての方にとって、永遠のテーマなのである。


 我々人間は、有限の人生の中にあって、常に不死の作品を創造してゆくのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)