自己の人生の中に散りばめられた宝石を一つ一つ発見して、自伝小説にすると、それはルソーの「告白」の如き小説になる。


 真なる告白小説というものは、万人の心に響く人生讃歌であり、多くの人々の人生の糧となるものである。


 それは、平凡な人から、偉人・天才に到るまで、真なる告白は、真なる芸術ともなりうるものであるのである。


 また、日々の日記の連続は、「自省録」として、自伝文学となりうるものである。一行一行の日々の魂の記録は、哲学的小説でもあり、さらには、一大芸術作品ともなりうるものなのである。


 このように、J・J・ルソーの「告白」や、マルクス・アウレリウスの「自省録」は、その一行一行が、魂の理念であり、天命の声である。その一行一行が、偉人の、天才の魂の声なのである。


 真に善く生きることこそが哲学の本分であり、また、芸術家・小説家の本分でもあるが、さらに、美しく生きることもまた、芸術家・小説家の本分である。


 美学に志すことこそが、芸術家・小説家の真なる天命であり、美学を創造することこそが、芸術家・小説家の主たる使命なのである。


 人生哲学の中の一大分野は、この美学である。故に、美学の構築こそが、哲学者の主たる本分の一つなのである。そのために、数多くの小説が役に立つのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 

 


 


 日本国の仏教の流れの中で、様々な宗派の開祖がいるが、その一人一人の精神を尊重してゆくことも大切である。


 栄西や、親鸞や、道元や、日蓮や、白隠や、一遍や、良寛や、空海や、円珍などの業績を一つ一つ学んで継いでゆくことも大切である。源信や、法然や、唯円などもそうである。


 また、現代の西田幾多郎や、鈴木大拙や、宮沢賢治などを再認識してゆくことも大切である。


 このように、釈迦の精神を、この日本の国において体現している開祖は多くいるのである。その一人一人の語録に珠玉の如き精神哲学があり、また、詩歌があるのである。


 こうしたものが日本精神の柱の一つを形創っており、これからの新生日本ルネサンスを考えてゆく上でも、仏教精神を神道精神の両者を共にルネサンスしてゆくことも大切なのである。


 こうした開祖となる仏祖の精神を一つ一つ再興してゆくことが、かの梅原猛の哲学でもあり、真なる仏教哲学なのである。


 このように、伝統的な日本精神を幅広く探究して、再興して、著述してゆくことが出来たならば、真なる日本仏教の精神を、現代に、新時代に復活せしめることが出来るのである。


 釈迦の精神とは、一人一人の仏祖の中に体現されており、その全てを敬い、つなげて、集大成してゆくことこそが、新生日本ルネサンスにおける哲学者・宗教家の聖なる使命であると言えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 


 


 人間というものは、いつまでたっても、「情」と「理」のバランスが大切である。
いくら教養があっても、「情」で人は動くものである。いくら哲学思想があっても、「情」で人は動くのである。「感性」で人は輝くのである。


 たとえ一字一句が美しい言葉であっても、そこに魂を動かす感動がなければならない。そのためには、「心を磨く」ことである。心に訴える「光」を培うことである。


「光」のみが闇を知るのである。闇を打ち消すには、そこに光の言霊がなくてはならない。


 現実社会の人間は、煩悩の中に六道輪廻しているのであり、解脱している人は少ないものである。こうした方々を解脱せしめる文学こそが、最高の文学である。その人間観・世界観を以って、人々を解脱へと向かわせる文学、哲学、短歌、詩歌、音楽こそが最高なのである。


 そのためには、「情」と「理」の両方が大切である。理屈だけでは、人は納得しないのである。故に、「情」を高めて育んでゆくことである。「理念」だけでは、人は納得しないのである。芸術的感動こそが大切なのである。


 人生とは、小説のようなものである。小説でない人生はないのである。新たな人生を創造して、再発見するものが真なる文学である。詩歌である。短歌である。哲学思想である。


 人生そのものの本質を呈示して、新たな世界観を開き、指し示すことが、文学の本領なのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)