人生というものを分析してゆくということが大切である。様々な人生を分析してゆく中で、そこから、一つでも多くの真実・真理を発見してゆかなくてはならない。


 人生の美学を多くの文学作品から学び、また、自己の実人生の中から抽出して、芸術へと昇華してゆかなくてはならない。


 人は、芸術を通して、小説や戯曲を通して、神仏に到ることも出来るのである。このように、仏典や聖書だけではなくて、文学作品には芸術的昇華力があるのである。


 芸術的観点から人生を観た場合に、無駄なものは何もないのである。人々が反省・廻心する姿にも、一大光明芸術の光があるものである。


 どんな人生でも、芸術の観点から、光へと昇華されないものはない。すなわち、作品とならないものはないのである。


 人生のただ中においてこそ、真理の輝きはあるものである。人生のただ中においてこそ、真理は光輝くものである。


 真理というものは、本来、美しいものである。真理は美であり、美は真理である。理念は美であり、美は理念である。


 人生の中に芸術的美を一つでも多く発見してゆくことが、真なる哲学の営みでもあるのであり、故に、真なる哲学は芸術であり、真なる芸術は哲学でもあるものである。


 芸術的真理の観点から観れば、人生は一遍の叙事詩であり、また、小説である。そして、多くの小説から学ぶものこそが、人生の真理なのである。

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 


 


 自らの心を磨くことは、王道である。真理を学び、精進して、心を修めてゆくことこそが、真なる学問の本道なのである。


 かのマルクス・アウレリウスの「自省録」のように、哲学を修めて、日々綴る日記の省察の中に己が魂を磨いてゆくこと、そして、人々に感化を与えつづけることは、大道である。


 故に、「心の哲学」をもっと探究してゆかなくてはならない。かのモンテーニュやエマソンなど、様々な「心の哲学」をこそ学び、探究してゆかなくてはならない。


 かの福澤諭吉の「福翁百話」の基本も、「心の哲学」であるといっても過言ではない。日々の心の省察があってこそ、幅広い教養も活きてゆくのである。故に、幅広い教養を活かしてゆくためにこそ、「心学」が必要なのである。


 それは、磨けば磨くほど光る心の玉であるから、己が心を常に磨きつづける真理、永遠普遍の真理が必要なのである。心を磨きつづけて光り輝いてくると、自然に洞察力も深く広く高くなってゆくのである。


 己が心を磨きつづけてゆけば、心は偉人の高尚なるものとなってゆくのである。古今東西の偉人に学びつづけて、心を磨きつづけて自らも偉人となってゆくことこそ、本当の学問である。


 偉人の偉人たる所以は、「心の哲学」を万人に示している所にこそあるのである。すべからく、偉人と称される方々は、第一級の人格を持っているものである。


 そのような偉人の心境こそ、才徳と共に、すべての人々が学びとってゆくべき目標であり、数多くの偉人賢人を目標として学びつづけながら、自らも偉人賢人となってゆくことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)

 

 

 

 

 


 人生というものには、様々な輝きがあるものである。そのような、自分の人生における、真なる光に満ちた幸福の瞬間をつないでゆくことが大切である。


 人生という一大光明劇の中で、光の場面を想い出し、それをつないでゆくことが大切である。そこに、愛を発見し、光を発見し、幸福を発見し、希望を発見してゆくことである。


 このような光の瞑想をなし、幸福の瞑想をなしてゆくことが、さらに、自己実現の瞑想をなし、希望の瞑想をなしてゆくことにつながってゆくのである。


 小説とは、自分の人生を振り返るためにあるのである。そこに描かれた所の他人の人生を通して、自己の人生を内省してゆくためにこそあるのである。


 さらに、「足ることを知る者は富めり。」「得がたきの貨を貴ばず。」(老子)とは、まさしく至言である。真に足ることを知れば、今、ここに、心の安定、心の幸福が得られるのである。


 このように、老子の哲学は永遠である。それは不滅の大道なのである。


 故に、足ることを知る瞑想は大切である。今の自分がどれだけ恵まれているかを発見することによって、感謝の想い、報恩の想いがふつふつとこみ上げてくると、真に人を愛することが出来るものである。真に万象万物に感謝報恩出来るものなのである。


 真に足ることを知ることによって、それが、深い感謝報恩の想いへとつながり、そこから真なる希望の実現へとつながってゆくのである。

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)