女性が、刺されたりひったくりに遭ったり、
挙句の果てには胸をわし掴むにされたり…と、
女性が被害者になるケースのニュースが
まあ、絶え間なく報道されているようです。
もちろん男性も、刺されたりひったくりに遭う
などという事例も少なくはないようですが、
さすがに男性が、胸をわし掴みにされた…と、
いう報道はあまり目にしないような気も
しないでもないのです。
その延長線上に、女性被害の空き巣であるとか、
女性が被害者となる下着泥棒、盗撮、痴漢、
暴行事件等々が存在するのかとも
考えられなくもないようです。
その根底には、やはり相変わらずの女性蔑視、
性差別の思想が根強く残っているようにも
思われます。
男たちはいつになったら正義に目覚めるのか、
男たちはいつになったらフェミニズムを理解
できるようになるのか、
なにも男に女になれと言っているわけではなく、
(最近ではそういう趣味趣向のかたもいらっしゃるようですが…)
せめて男性も女性の立場を理解し、
肉体的文化的差異を
受け入れる姿勢こそが、
真の意味での、他者を受け入れる
ということにもつながり、
それこそが世界平和、しいては
差別なき平等な社会、公正な倫理を
実現する近道であるとも
考えられなくもないようです。
「困窮の身が創意工夫を促し、これこそが努力の原動力となる。」
(テオクリトス「エイデュリア」)
何を困窮と感じるのか、
どの程度を貧困と判断するのかも、
それぞれであるのかもしれません。
しかしながら自分で困窮しているとか、
貧困であると感じていた時代を
過ごした経験のある人は、
それがとてつもないバネになるとも
考えられるのです。
バネにできない人と、
貧困困窮経験のない人は、
人間として向上するチャンスのひとつを
見逃してしまった、
あるいは失ってしまったと考えられ、
その結果、人間としてアタリマエに成長、
向上することもでき得なかったと
判断されてもいたしかたも
いたしかゆしでもなかったようにも
なってしまうのかも知れません。
「我々がこわがっているのではないにしても、そういったことに怯えている子供が、我々の中にも明らかに存在する。」
(プラトン「饗宴/パイドン」)
「こわくない」という人は、
本性的にウソつきであるか、
知恵足らずである可能性が
高いといえるようにも思われます。
人間は本性的になんらかの、あるいは、
なにかに怯えることがあってのアタリマエで、
そのアタリマエを
受け入れることができないという人は、
どうしても本性的なウソつきか
根本的におバカな人であるようにも
思われなくもないような気も
しないでもないのです。
「愛する者は何にでも不安になる。」
(オウィディウス「変身物語」)
僕は複雑な環境で幼少期を
過ごさなければならなかった関係で、
人を愛することにも信じることにも
欠如が見られるようです。
その反動で、好き嫌いも激しい代わり、
好きな人とか人生、学問に対する愛情、
人間に対する博愛熱量も
激しくなっているようにも思われるのです。
なにが幸いしてなにが禍となるのかはわからない。
それでも僕は自分の愛情ふかき性分は
有難いこととして受け止めているかのようにも
見受けられたりもしているのかも知れません。
破壊されるカルタゴを見てスキピオは言った、「プリュピオス、たしかにすばらしい。だがなぜだかわからないが不安なのだ。この命令をいつかだれかが我々の祖国に向けて発するのではないか、そんな予感が消えないのだ。」
(ポリュピオス「歴史」)