コラム・インテリジェンス -37ページ目

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

選択肢が多いから、人は苦しみ、

選択肢を減らせば、人は楽になる。

 

何のために生きるのか?よりも

どのように死んで行くのか?の方が

選択肢が限られてくる分だけ、

何かと便利で楽ちんに

なれるようにも思われなくもないのです。

 

ココでは、余命宣告により選択肢が

ほぼほぼなくなったオンボロ翁の

夢想を記させていただいているわけですが、

これが何となく現役の人々の観想の

お役に立てれば何よりであるかと

願ったり叶ったりすべったり転んだりと

考えているようにも思われたり思われなかったりも

している次第でもあるのかとも

考えられるようにも思われるようにも

思われなくもないのです。

 

「それはあまりに大きな不正であるがゆえに、いかなる法も定めてはいない。」

(リュシアス「弁論集」京都大学学術出版会)

 

スマホ片手に歩いていて、

小学生と激突、その後、被害者の小学生は、

脳に障害をきたしてしまった、とか、

スマホ片手に自転車で、

障害者で老齢の夫人に衝突、

老婦人はその後死亡が確認された等々の

ニュースがあとをたたない状況であるようです。

しかしながら、これらの行為は

あまりにも大きな不正が含まれているために、

単純な傷害罪とか、業務上過失致死で

争われる程度の、

現行の法律で確たる罪と罰を明記されて

いるわけでもないようです。

私的には、スマホだろうが自転車だろうが、

人を死に至らしめてしまったのだから、

殺人罪として議論されるべきであるとも

考えられるとも思われないとも考えられるような、

気もしないとも思われなくもないと考えています。

罪と罰、悪徳の順位、悪行のランク査定などは、

倫理論理学と哲学の領域にも

入り込んでくる問題でもあるので、

大々的な議論が必要とされるようにも

思われなくもないのです。

 

「ゼウス自身がすべてに目を光らせる。我々人間は、敬虔な者も不正な者も、けっしてその目を逃れられない。」

(アポロニオス「西洋古典名言名句集」京都大学学術出版会)

 

天はすべてお見通しである。

これを信じる者は敬虔で努力を惜しまず、

怠慢は悪徳であると確信し、

自分を常に正義ある者と努め、

理性知性品性の向上に励み、

正しい人間であろうとするようです。

しかしながら、ゼウスの目さえごまかし、

天をもごまかし騙し通せるなどと

思い込んでいる人間は、自らの不正も、

怠慢も努力にも目をつぶり、

いいかげんでチャラい生き方を

選択した結果、天にも知にも運にも見放され、

惨めな人生を迎え入れてしまうのかも知れません。

 

「そもそも国家の存立が言論に基づいている以上、言葉が真実でなければどうして安全な国家運営ができるでしょうか?」

(デモステネス「弁論集」京都大学学術出版会)

 

平等、公正を旨とする国家を標榜するのなら、

その言論に無知やウソがあってはならない、

ということのようです。

人間関係も家族も男と女も、

言葉使いが正しくも真実でもないのなら、

その行く末も運任せであるとか、

成り行き任せでどうなるようなものでも

なりそでありそな気もしないでもないのです。

 

「女を不定の女にするのも、しないのも、心の持ち方次第。ふとした成り行きによってどうなるようなものではない。」

(セネカ「パエドラ」)

 

マドラーをストローと間違え、

口にくわえて吸い込もうとしている自分の姿に

茫然としてしまうくらいのシーンには

慣れっこになってしまっているようです。

コーヒーを飲んでいて、

少しばかり牛乳を足して飲みたい

という欲望が沸き起こり、

冷蔵庫に牛乳を取りに行ったら、

何気なくカルピス・ウォーターが目に入り、

そのままカルピス・ウォーターを持って、

さあコーヒーに牛乳を足してみようと思ったら、

なぜだかカルピス・ウォーターを持っていて、

その過ちを認めるどころか、ひょっとしたら、

コーヒーにカルピス・ウォーターを入れても

案外美味しいのではないかなどとバカなことを

思いつき、そこで初めて自分が、

いったい何をしているのか?

いったい何をしようとしているのか?

という二重のボケに気づく有様。

牛乳を取りに行きカルピス・ウォーターを

平気で持ち帰って来てしまったボケだけではなく、

挙句の果てにはコーヒーにはカルピス・ウォーターでも

美味しいのではないかなどというバカげた発想を

自慢気に自画自賛してしまうほど

呆れたボケさかげんは、

ボケている自分をさらにボケて正当化しようという

あきれたボケの二重奏。

若い人々には想像もつかない呆けの世界は、

まことに神秘で不合理な理論に

満ち満ちてしまっているような気もして、

なんだかそれが嬉しく楽しく感じてしまうほどの

本格的正統派的由緒正しき世界へと

突入しているようなそうでもないような気も

しないでもないのです。

 

「武器と法律にはそれぞれに相応しい時というものがある。」

(プルタルコス「カエサル/英雄伝」)

 

それが今…、なのか、いや…、そうではない

などと言っているあいだに、

カタストロフが発生して、武器も法律も、

それぞれに相応しい時などという概念さえも

消え失せてしまうのかも知れません。

 

「涙を流しても不幸は去らずに、苦しみにまた苦しみを重ねることになる。」

(アポロニオス「アルゴナウィティカ」)

 

不幸も不運も、

それを嘆いているだけでは、

何も解決しないようです。

不幸も不運も、

その状態を脱したいのなら、

まず第一に嘆くのはやめて、

冷静な思考と判断と戦略が

必要となるはずであるとも考えます。

冷静な思考と判断と戦略は、

生半可な姿勢では成り立たないので、

すなわち嘆いている暇などもない

ということのようです。

不幸も不運も、それを嘆いた時点で、

その不幸と不運は連鎖のスパイラルに

入り込んでしまう危険があるとも

考えられなくもないのです。

 

「これ以上の災いがないとなれば、恐怖も踏みつけにできる。究極の不幸は心に平安をもたらす。」

(オウィディウス「変身物語」)

 

今の自分の不幸、不運、災いが、

どの程度なのかを冷静に

判断できるのなら、

今の災いには解決方法があり、

そこへ導く自分のスキルが低いだけであるので、

身近な賢者に助言を求め解決へと

導いてもらうことも可能であるようです。

しかしながら、どのような賢者に

救いを求めても、その解決方法を

見出すことが困難だと考えられるような災いには、

すべてを受け入れるという心が平安をもたらし、

究極の不幸こそ究極の幸せ、

究極の不幸こそ、神からの最後のプレゼントとして、

素直に謙虚に、人間として、最後の飛翔を

可能とするようにも考えています。

 

「いいことが少ないからといって、そのことを大きな不幸と考えてはならない。運がさらなる望みを叶えてくれなかったからといって、すでに与えられているものへの感謝を忘れてもならない。」

(プルタルコス「モラリア」)

 

平均年齢35歳の女性4人にとっての、

それぞれはそれぞれであるけど、

拙宅を出て右に6分でスタバ、

左に4分でスタバという状況を

ぶつけてみると、それぞれが、

大型店で6分のスタバと、

小型店で4分のスタバの選択理由が面白い。

店舗との相性もあるのでしょうけど、

6分かかっても大型店のほうが良い

という派と、小型ではあるけど4分の

スタバのほうが使い勝手が良い

という派に分かれます。

この条件に僕の好みを加えると

さらに問題は複雑になって、

持ち帰り用にホワイトモカを買って来てもらい、

さらに自宅のドリップ用には

スタバ「オリガミシリーズ『べロナ』」も

買って来てもらうとなると、

どちらの店舗のホワイトモカが美味しくて、

どちらの店舗の挽き方のべロナが美味しいのか

等々、これらの議論を巻き起こし、

女性35歳もこれだけの条件がハイブリッド化してくると、

これだけの選択肢とそれなりの根拠を挙げることが

可能となってしまうほどに、人生も

それなりに複雑であるのだろうなぁ…と、

いまさらながらに感慨もひとしおであると

思ったり思わなかったりもするのかも知れません。

 

「不運はかえって愛の火を煽る。」

(セネカ「オエタ山上のヘルクレス」)

 

今が不運の時代だからこそ、

人々はやたらと愛だ提灯だ、

恋愛だ「彼氏いない歴〇〇年」「彼女いない歴〇年」

などという拘りを表明し、また映画、文学、

小説、なんならハウ・トゥ本でさえ、

恋愛に関するああでもないこうでもないが、

溢れかえっているのかも知れません。

ただし、確実にいえることは

「彼女いない歴何年」などと公言する男は、

あるいは、恋愛に関する云々を読んだり

語ったりする男は、その時点で

モテない男の人生を

獲得してしまっているようにも

考えられるような気も

しないでもないのです。

 

「この国は、もうダメだな、人類も、おしまいだな、全部無くして始めた方が、もういいな。」

(池田晶子「暮らしの哲学」)

 

皆が無意識のうちに

カタストロフ(大破局)を

望んでいるのかも知れません。

その思いがエチケットを守らない人間、

マナーをわきまえない人間を生み出し、

そのくせ、その反動で、「自分だけは」

という傍観者的あるいは野次馬的

超利己主義を助長しているとも

考えられるようにも思われなくもないのです。

そしてその延長線上にはレイの

恋愛至上主義的スケベな男の思考が

横たわっているのだと断言できるのです

的な検証もできそうでできないのかも

いや、そうでもないと主張したい

のかも知れません、ともいうらしいのです。

 

「不運に耐えているだけでは、諸君に救いの希望などない。」

(リュシアス「弁論集」京都大学学術出版会)

 

無意識にでもカタストロフを連想したり、

あるいは意識的にでもカタストロフ的思考を

持ち合わせてしまっただけの人類が

発生した時点で、人類は「ただ耐えるだけ」

のスタンスをとり始め、その時点で

我々には「救いの希望」も

失われてしまったのかも知れません。

ただし本来ならば、我々は不遇、不運から学び、

知的向上、理性の目覚め等々の武器を

手に入れるべきであるような気も

しないでもないのです。

 

「権利は我々の持つ武器の中に存在する。」

(リウィウス「ローマ建国以来の歴史2」)