選択肢が多いから、人は苦しみ、
選択肢を減らせば、人は楽になる。
何のために生きるのか?よりも
どのように死んで行くのか?の方が
選択肢が限られてくる分だけ、
何かと便利で楽ちんに
なれるようにも思われなくもないのです。
ココでは、余命宣告により選択肢が
ほぼほぼなくなったオンボロ翁の
夢想を記させていただいているわけですが、
これが何となく現役の人々の観想の
お役に立てれば何よりであるかと
願ったり叶ったりすべったり転んだりと
考えているようにも思われたり思われなかったりも
している次第でもあるのかとも
考えられるようにも思われるようにも
思われなくもないのです。
「それはあまりに大きな不正であるがゆえに、いかなる法も定めてはいない。」
(リュシアス「弁論集」京都大学学術出版会)
スマホ片手に歩いていて、
小学生と激突、その後、被害者の小学生は、
脳に障害をきたしてしまった、とか、
スマホ片手に自転車で、
障害者で老齢の夫人に衝突、
老婦人はその後死亡が確認された等々の
ニュースがあとをたたない状況であるようです。
しかしながら、これらの行為は
あまりにも大きな不正が含まれているために、
単純な傷害罪とか、業務上過失致死で
争われる程度の、
現行の法律で確たる罪と罰を明記されて
いるわけでもないようです。
私的には、スマホだろうが自転車だろうが、
人を死に至らしめてしまったのだから、
殺人罪として議論されるべきであるとも
考えられるとも思われないとも考えられるような、
気もしないとも思われなくもないと考えています。
罪と罰、悪徳の順位、悪行のランク査定などは、
倫理論理学と哲学の領域にも
入り込んでくる問題でもあるので、
大々的な議論が必要とされるようにも
思われなくもないのです。
「ゼウス自身がすべてに目を光らせる。我々人間は、敬虔な者も不正な者も、けっしてその目を逃れられない。」
(アポロニオス「西洋古典名言名句集」京都大学学術出版会)
天はすべてお見通しである。
これを信じる者は敬虔で努力を惜しまず、
怠慢は悪徳であると確信し、
自分を常に正義ある者と努め、
理性知性品性の向上に励み、
正しい人間であろうとするようです。
しかしながら、ゼウスの目さえごまかし、
天をもごまかし騙し通せるなどと
思い込んでいる人間は、自らの不正も、
怠慢も努力にも目をつぶり、
いいかげんでチャラい生き方を
選択した結果、天にも知にも運にも見放され、
惨めな人生を迎え入れてしまうのかも知れません。
「そもそも国家の存立が言論に基づいている以上、言葉が真実でなければどうして安全な国家運営ができるでしょうか?」
(デモステネス「弁論集」京都大学学術出版会)
平等、公正を旨とする国家を標榜するのなら、
その言論に無知やウソがあってはならない、
ということのようです。
人間関係も家族も男と女も、
言葉使いが正しくも真実でもないのなら、
その行く末も運任せであるとか、
成り行き任せでどうなるようなものでも
なりそでありそな気もしないでもないのです。
「女を不定の女にするのも、しないのも、心の持ち方次第。ふとした成り行きによってどうなるようなものではない。」
(セネカ「パエドラ」)