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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

「〇〇の秋」というフレーズを、

自分への鼓舞素材、

自分へ向けたキャッチとして掲げ、

それを現実化する秋として、

自分なりの四季を堪能するのも、

一つの戦略となっていくのかも知れません。

 

僕ならアタリマエに「読書の秋」であり、

「瞑想を究める秋」でもいいし、

「シャイン・マスカットを食べ尽くす秋」

でもいいようにも思われますが、

それぞれがそれぞれの秋を発表し合うのも

それもまた一つの娯楽として

成立してしまうような気も

しないでもないのです。

 

「弁論家とは、小なるものを大に、大なるものを小にすること。」

(プルタルコス「十大弁論家列伝」)

 

弁論家とは、どのような些細なことも、

重要なことであるとして捉え、

どのような大きなことも、

たいしたこともないと、

自らにでも他者にでも、

教え諭すことのできる者であると、

僕は考えているのかも知れません。

 

ですから、今どき何も、

弁論家になりましょう。

と、申し上げているわけでもなく、

幸福、安寧、安全、安心のためには、

弁論術を磨き、弁論家になるくらいの勢いで

ご一緒に、お互い切磋琢磨してゆけたら、

それはそれで、これはこれででもよいけれど、

なんとなく嬉しい楽しいのかも知れないと、

提案申し上げたいだけであるとも思われるような、

気もしないでもないのです。

 

「実際すでに弁舌の力なき者の多くが、真実を信じてもらえず、真実を証明しえぬために、真実そのものゆえに身を滅ぼしているが、弁舌に長けた者の多くが、彼の語った嘘を信じられ、嘘を吐いたがゆえにその嘘によって救われている。」

(アンティポン「第五弁論」京都大学学術出版会)

 

弁舌力すなわち弁論術、

超弁論術を身に付けた者が

ソフィストという称号を

手に入れていたという話は、

前コラムで記させていただきました。

 

で、ソフィストたちは、たとえ嘘でも

善行善意のうえのウソなので、

それは信じて受け入れられ、

それなりの評価も手に入れることが

可能であるけれど、

 

そうでない者つまりは

ソフィスト以外の多くの人々は、

たとえ真実を述べたにしても、

誰にも信じてもらえず、

最終的には自らの身をも

滅ぼしてしまうという現実に

ぶち当たってしまうケースも多いので、

ココに集いし皆さんは、ぜひとも

ソフィストを目指して、ご一緒に、

“アリストス”と共に、

学習し続けてゆくのが、

賢明であろうとでもいうような

ことであるのかも知れません。

 

〈我々はソフィストを目指しているから、

常にソフィストケイテッドな人間でもある。〉

 

「実際、万物の父にして世界の創造者たる、かの最初の神が人間と他の死すべき動物とを区別したのは、ほかならぬ弁論の能力によってなのである。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」京都大学学術出版会)

 

秋の日は釣瓶(つるべ)落とし。

釣瓶という言葉自体が死語。ですが、

 

釣瓶は井戸水、井戸が存在した時代の

水を汲み上げる木製装置の一部。

アタリマエに

芸人鶴瓶の機能の一部ではないようです。

 

秋の日は短く、釣瓶の如くアッというまの

瞬間的作業つまりはアッというまに

日が落ちてしまう、釣瓶が落ちて水を

汲み上げるがごとくに

瞬時にことを終えてしまう。

水が落ちる、陽が落ちる、とかけたシャレた

たとえの言い回しでもあるようです。

 

秋の日は釣瓶落とし。

日が短くなりました。

アッというまに暗くなる感じです。

 

夜が長くなった分だけ、

読書に、瞑想に、映画に海外ドラマ鑑賞にと、

至高の時間を有効に

使いたいものであるとも思われなくもないのです。

 

「真の弁論家は、卑しく低劣な心をもってはならない。というのも、全生涯にわたって卑俗で下品なことを考えたり行う者には、何ら驚嘆すべきもの、永遠の価値をもつものを見出すことはできないからである。」

(ロンギノス「西洋古典名言名句集」京都大学学術出版会)

 

「弁論家」という言葉は、

我々にはあまり馴染みのあるものでは

ないようにも思われます。

現代で「弁論家」といえば、せいぜい、

「弁論大会」「弁論部」などという言葉で、

「なんか聞いたことがある」ていどの

意味合いにすぎないとも考えられるのです。

 

しかしながら、

古代ギリシャ・ローマ時代にあっては、

「ソフィスト」と呼ばれる人々が、

金銭を受け取って徳を教えたとされる

教育家・弁論家と称されたように、

ソフィスト、弁論家、弁論術は、

至高の職業とされていたようです。

 

ソフィストたちはアタリマエに、

知識、経験、敬虔に優れた人々であっただろうし、

ソフィストたちはアタリマエに、

卑しく低俗な心を持たず、

ソフィストたちは全生涯において、

卑俗で下品なことを考えたり行ったりも

しない人々であったとも考えられます。

 

僕の人生も実は、このソフィストを目指して

切磋琢磨されてきたし、ココでは実は僕は、

ソフィスト仲間を創りたいという計らいのもとに、

ああだこうだと能書きを

書き記させていただいていたのかも知れないのです。

 

「しかしまたいっぽうで、みんなから憎まれることも、性格の悪辣さで目立ち、弁論の悪辣さでさらにいっそう目立つとも、『これが、あらゆる悪徳にかけて右に出る者のないと言われている例の男だ』と指されることも、少なくとも私にとっては、大切なことなのだ。」

(ルキアノス「弁論教師」京都大学学術出版会)

 

真実真理がときに人々にとっては、

つらく厳しいものであるように、

ソフィストはときに憎まれ、

ときに忌み嫌われることもあるのかとも思われます。

しかしながらそれはいっぽうで、

そのソフィストが如何に優秀であるのかという

証明にもなってくるような気も

しないでもないのです。

 

「さて私は完全な弁論家を育て上げるつもりであり、完全な弁論家とは善き人物以外ではあり得ない。それゆえ完全な弁論家には弁論のきわだった能力のみならず、あらゆる徳を私は要求するのである。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」京都大学学術出版会)

 

何よりも、善き人物は、

幸福になる確率が高い。

何よりも、徳を手に入れれば、

幸せになれる可能性も拡がる。

それゆえ善き人物となり、

徳を身に付けた人間になり、

挙句の果てには

弁論家となってしまえば、

なおさら、至幸に辿り着けるチャンスも

おおいに拡大されていくものであるのかとも

思われなくもないのかも知れません。

 

セクハラは圧倒的に、

したほうが悪い。

パワハラも現実的に、

したほうが悪い。

しかしながら、カスハラは、

したほうが圧倒的に悪い

というケースばかりでも

なさそうな気もしないでもないのです。

現実的に、レコーダーなどの機器が、

活用されて、録音されたテープなどを

詳細に検討されるケースも増えているようです。

これによると、カスハラの場合、問題となるのが、

企業側の客への対応に落ち度がなかったのか、

そうでもなかったのか、あるいは全然なかったのか、

等々などの観点からも、改善の余地が見出されるケースも

少なくもなそうです。

礼儀作法、礼と節。

個人的に腹立たしいと思うことや、

個人的に苛立ちを覚えてしまうケースでも、

そこは礼儀作法、礼と節、

自分の感情を相手に悟られずに、

礼儀作法、礼と節あっての、企業と個人であるし、

人間関係でもあるのかとも考えています。

問題の根源に挙がられる世代間ギャップにしても、

敬老の日が祝日であったり、

先輩後輩間の礼儀作法を鑑みれば、

企業側に対しても、客に対しても、とても

あのような態度はないであろうとするのが、

老いぼれポンコツである僕の見解でも

あったりなかったりもするのかも知れません。

日常的になされる先輩に対しての態度が、

そのままカスハラ問題に実践されていたならば、

とてもあのようなカスハラ被害にあうことも

なかったろうにとか思われることが、

悲しい現実として、横たわっているような

気もしないでもないのです。

 

「戦争は怠惰を養ってはおかない」

(アイスキネス「西洋古典名言名句集」京都大学学術出版会)

 

戦争になったら、戦時下においては、

怠惰は絶対に許されないし、

許されるべくもないし、

戦争とは、

そんなに甘っちょろい状況では

あり得ないということなのかも知れません。

あるいは、または、なので、

怠惰が戦争を引き起こすほどの

重大な悪行であるとも、

怠惰の連鎖が戦争を引き起こすのだとも

考えられるようです。

ゆえに、または、なので、

怠惰は絶対に許されるはずもない

大罪であると同時に、

怠惰こそ、諸悪の根源となりうる

ということでもあるような気も

しないでもないのです。

礼儀作法を怠れば、その怠惰は、

戦争にでも殴り合いにでも

発展してしまうほどに、

礼と節は守られなければならぬ

重要な人間性の表象であるとも

考えられるようにも思われます。

 

「美しく気品あるものでも、心地よいものと同様、同じところにとどまっているとすべてに飽きがくるが、変化によって彩をつけると、常に新鮮であり続ける。」

(デュオニュシオス「西洋古典名言名句集」京都大学学術出版会)

 

すべてのものには飽きがくる。

しかしながら、

そこに変化という彩を添えれば、

すべてが新鮮となり、

すべてのものの飽きという呪縛から

逃れられることも可能となる

ということのようです。

そこにクリエイティブ、それこそ

クリエイティブ、クリエイティビリティの

才があるかないかの差異が

生じてくる重大なエッセンス、

クォーリティーの表象であるのかとも思われるのです。

僕はあまり飽きというものを感じたことがない。

飽きる前に飽きる対象の中に、

別の視点、別のエッセンスを見出してしまうことが

多いからかとも考えられます。

他者に対しても、常に別の視点、

別の長所短所、別のエッセンスを嗅ぎ付けてしまうのです。

それが人間関係においては

正であるのか邪であるのかはわかりませんが、

少なくとも仕事においては

このクリエイティビリティというものの存在が、

大きな利点となることを体現してきたとも

いえるようなそうでもないような気も

しないでもないのです。