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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

秋刀魚が秋に旬をむかえる最も美味な、

まるで日本刀のように美しい魚であるから

秋刀魚と書く、というのでは

あまりにアタリマエすぎて、

面白くも可笑しくもないけれど、

 

同じく秋に旬をむかえる食材にあっても、

栗とかさつまいも、柿とか梨にいたっては、

それどころでもないような美味であると

いわざるも得ぬようにも考えられます。

 

それぞれが旬をむかえるこの時期、

それぞれの旬の味を楽しませて頂くべきが、

人としてのマナーとかエチケットで

あるような気もしないでもないのです。

 

人として、法とか秩序、倫理とか道徳、

挙句の果てには語源であるとか雑学的な知よりも、

人としての本来は、自然の恵みである食材を

堪能することが、まずは始まりであって

ほしいようにも思われなくもないのです。

 

「おまえを殺そうとしたのは私ではない。この国の法なのだ。」

(「リュシアス弁論集」京都大学学術出版会)

 

人は法に縛られ、

法に操られているようです。

 

そしてその法を定めた者の中には、

傲慢で小心、利己主義で排他主義、

実力もなく権力欲だけに

囚われて生きているような者たちも、

多いに含まれているようにも

思われなくもないのです。

 

法は人と人との契約であると同時に、

人と社会との契約でもあるのかも知れません。

 

「狡賢い人間が作りだした契約社会は醜悪なだけの社会となる」

(「統治二論」ジョン・ロック)

 

コラム・インテリジェンス「ジャッジ&チョイス13」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12705766450.html

 

法も契約も、公正平等が

アタリマエの基本となっているけど、

現実にはその策定者の人格、品格に、

左右されているような気も

しないでもないのです。

 

「法を犯したのは、むしろ導きいれた人々であって、それに従った人々ではない。」

(トゥキュディデス「歴史」)

 

凶悪犯罪の根源になにがあるのか、

凶悪事件の真の首謀者は誰であるのか、

醜悪なる社会が凶悪犯を生み出したのだとしたら、

その主犯は社会であり、その首謀者は、

その社会を構成するすべての

人々であるのかも知れません。

 

犯罪にネットを利用されれば、

ネットそれ自体が犯罪の首謀者または、

根源であると考える人が出現しても、

なんら不思議もないような気も

しないでもないのです。

 

「法は欲求を欠く知性。」

(アリストテレス「政治学」)

 

 

秋雨(あきさめ、しゅうう)とか

秋霖(しゅうりん)とか、

「秋の長雨」とか、日本語には

なんとも美しい表現、言葉の魅力が

満載されているようにも思われます。

 

この時期、それぞれのこの時期が、

日本語でどのような表現で言い表すのか、

それぞれがそれぞれの感慨を、

それぞれの日本語で考察してみるのも、

この時期ならではのお楽しみの一つと

なっていくような気も 

しないでもないのです。

 

あと、秋と雨、秋の雨に関する

どのような日本語があったのだろう

などという考察も大いに、

秋を楽しむアイテムとして

活用していただきたいようにも

思われなくもないようにも考えられます。

 

「雄弁が勝利し、雄弁が指揮し、雄弁だけが勝利するのである。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」京都大学学術出版会)

 

善いことなのか悪いことなのかはわからない。

しかしながら現実に、

口の達者な人が勝利し、口のうまい人が指揮をして、

口の達者なものが優位に立つ場合も

多いのかとも思われます。

 

「弁論術とは、立派に語るための学問である。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」京都大学学術出版会)

 

ソフィスト養成所、

ソフィストケイテッドな人間を

育てるための学問が、弁論術である

ということのようです。

 

ソフィストとは、立派に語るための学問を

身に付けた人のことであるとも

いえるのかも知れません。

 

「弁論術とは、正しく発想すること、正しく言い表すことが、確かな記憶と立派な話しぶりとで結びついた学びのことでもある。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」京都大学学術出版会)

 

ソフィストは正しい発想を

正しく言い表すことができ、

それらを確かな記憶とで結びつけ、

立派な話しぶりのできる人であるとも、

言い表すことができるようです。

 

「弁論術とは実に勉学の最大の成果である。あらゆる知識と経験の、長い労苦から得た最も豊かな収穫であるのは、即興でいつでもどこでも物事を弁じる能力である。それを獲得しない者は、その他の雑多な仕事に振り分けるべきである。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」京都大学学術出版会)

 

弁論術を身に付けるということは、

多くの知識と経験を、長い労苦の末に獲得し、

正しい道を自分にも他者にも示すことであり、

いつでもどこでも指揮を

執ることができるということであるようです。

 

それゆえそれを獲得していない人々は、

それ以外の作務を分担して行うのが、

全体としての成立となってしまうのかも知れません。

 

「さあ進め、君、君の栄光のもとに昇りつめ、君のすべてを叶えよう。というのも、弁論家が個も国も、正邪も善悪も、取り仕切るということは明白なのであるから。」

(ルキアノス「弁論教師」京都大学学術出版会)

 

相変わらずの稚拙な

〇〇ハラスメントという議論が、

周期的に話題にされているような気も

しないでもないのです。

 

しかしながら、そんなことよりも、

それよりもこの秋を、この季節を

お互いに楽しむべきが肝要であるようにも

思われなくもなく考えられるのかも知れません。

 

「その一方で、弁論を行おうとする者は、とくに感情に訴えかける案件において、相応しい人物になりきらねばならない。というのも、感情は人に委ねることができないものであり、他人の心の動きは本人の心の動きほどには効果的に伝わらないからなのである。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」京都大学学術出版会)

 

客と店員、納税者と小役人、

電話客と電話オペレーター等々、組織側の人間と、

そこに問い合わせるあるいはお金を払って、

ものやサービスを提供してもらう側の

個とでは、とくにこの弁論術が

必要とされているようにも思われます。

 

ものやサービスの順番あるいは

フローとしては、アタリマエに、

まず初めにお金を、

お客、納税者、問い合わせ側の個が、

国とか企業といった組織側に支払い、そこから、

回りまわって店員、役人、オペレーター等々への

給料なり時給なりが

支払われているというアタリマエが、

理解されていないあるいは理解していない、

または知らなかったまたは知ってはいても、

そんなことは無自覚に忘れてしまっている人は、

多いようにも思われなくもないのです。

 

支払う側も、モノやサービスを

提供してもらう代わりに、その対価として

お金を媒体とさせていただいている自覚、

その自覚があれば感謝も生まれる。

 

その無自覚が双方に

「ありがとうございます」という感情を

失わせている結果、パワハラなどという

幼稚な感情の行き違い、あるいは

稚拙ないざこざの原因となっている場合も、

少なくもないようにも思われなくもないのです。

 

「ありがとうございます」という感情の先には、

支払っている人間への敬意があるべきで、

自分たちの給料を払ってくれているのは、

上司でも組織でもなく、目の前にいる

お金を払っている人であるということを

忘れていては、お互いに敬意も

ありがとうの感情も伝わらずに、

意味のない理不尽な敵意だけが、

ぶつかり合ってしまう状況を

作り出してしまっているのかとも

考えられなくもないような気も

しないでもないです。

 

「物事の本性は秩序をよりどころとしており、秩序が乱されれば何もかもが壊滅してしまう。同様に、秩序を欠いた弁論は必然的に、支離滅裂となり、定められた始まりも終わりもない計画よりも偶然に従うことになってしまう。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」京都大学学術出版会)

 

いいのかわるいのかは別として、

資本主義と民主主義が

ごっちゃになっているような社会においても、

始めに金銭が支払われることを前提として、

金銭を受け取る人がいるのならば、

金銭を支払っているのが誰なのか、

それが企業側に支払われる金銭であっても、

それが国家に搾取されている税金であるにしても、

それを受け取ってしまっているのならば、

それを支払っている人の立場も考慮すべきであって、

売り場の店員にしても、小役人にしても、

電話センターのオペレーターにしても、

受け取る側はそのシステムを理解したうえで、

秩序を守るべき弁論が必要となるはずです。

いかなる受け答えがあったにしても、

その秩序が認識されぬままの議論は、

資本主義も民主主義も壊滅させてしまう、

支離滅裂なる弁論であって、まさかにそれが、

どちらが正であるのかどちらが否であるのかの議論が、

今さらながらに勃発するような社会では、

もうどうにもならないとしかいいようもない

ということになってしまうのかも知れません。