コラム・インテリジェンス -33ページ目

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

日が短くなって夜が長くなる。

色彩的には黄色とか緑の時間が短く、

暗黒またはグレーの色が長くなる。

 

気温が急激に下がり、樹々が

緑から黄色や赤に変わり、

空の色も春のターコイズから

夏のスカイブルー、そして秋の

ベビーブルーへと変化を見せてゆきます。

 

「秋が深まる」「秋も深まる」という言葉は、

これらの変化を、濃い薄い、薄い深いという観念で、

見事に表現した言葉であるようです。

 

それなのになぜか「春が深まる」とか

「春も深まってまいりました」とか

なんなら「夏が深まって」とか

「夏も深まりを増してまいりました」

などという言い回しは聞いたことも

ないようにも思われなくもないのです。

 

それにしても、まあ、日本語というものは、

よくもまあ、美しい言葉を次々と

生み出してきたものであるなぁ…などと、

「秋の深まり」と共に、感じられる季節に

突入してきているとういのは紛れもない

事実でも真実でもあるな気も

しないでもないのです。

 

「最大の報復とは、自分が相手と同種の者とならないことである。仕返しの手段に不正を加えたり、害悪をはたらくことは、たとえどんな目に遭わされようとも、けっしてしてはならない。」

(プラトン「ソクラテスの弁明」)

 

僕は幼少期から、社会に対して、

体制に対して、自分の現状に対して、

なんだかわけもわからぬ憤怒と

被害者意識を持ち続けていました。

 

そこで、

社会に対して、体制に対して、

自分の現状に対しての報復、反撃

というものを、常に考え続けて

いたようにも思われなくもないのです。

 

しかしながら、

小学校高学年になるころに、

ソクラテスの、この言葉に出会ったことにより、

僕の報復行動、反撃の手段としては、

この社会とは真逆の人生を、

この体制とは真逆の生き方を、

現状、間近にいる人々とは真逆の生活を

送ってみようと考えたのでした。

 

僕の目からは怠慢にあるように映るオトナたちとは、

真逆に、真摯に、賢明に、真面目に、なんにでも、

一生懸命努力して立ち向かっていこうと、

 

僕の目からは理不尽で不公平で不平等に

移る体制とは真逆に、自分だけは真摯に、

自分だけでも首尾一貫、志を高く、初心を忘れず、

公平で平等な思考を心掛けて生きていこうと、

 

僕の目からは、貧困格差、金持ちが優位で、

貧乏人は弱者に映る現状とは真逆に、

自分だけは勤勉、努力、平等、公平、

志高く、首尾一貫、正義と誠という初心を忘れず、

生きていこうと心掛けて生きると決心し、

自分に誓いを立て、その自分だけはけっして

裏切らぬように生きていきたいと

願ったのでした、とでもいうような気も

しないでもないのです。

 

「精神が邪悪でまともでない者が富を成し、富を成す者は飽満と慢心により自らの精神を破壊する。」

(テオグニス「エレゲイア詩集」)

 

富と飽満と慢心は

邪悪への悪循環となり、

やがてはその者の精神をも

破壊するほどに

おぞましいものでもあるようです。

 

「飽食(ほうしょく)と安逸(あんいつ)の中で、やがて人心は放逸(ほうし)に流れる。」

(リウィウス「ローマ建国以来の歴史」)

 

辞書によれば、

飽食(ほうしょく)とは、

食物に不自由のないこと。

安逸(あんいつ)とは、

何もせずにぶらぶら暮らすこと。

放恣(ほうし)とは、

節度のないこと、などとあります。

 

現代日本社会のように、

食べる物に不自由なく、

たいしたこともしないで、

何もしないでぶらぶらと暮らすような

人々が増えれば、

やがてはこの社会全体が、

節度なき、節操もなき、品性品位なき社会へと

退廃していくのかも知れません。

「もみじ」はそれだけで「もみじ」である。

なんてことを申し上げると、

なんだかインチキ臭い話であるように

思われてしまうのかも知れません。

 

しかしながら「もみじ」は実際には、

カエデ科のなかの数種の樹木の固有名詞であり、

「もみじ」を「紅葉」と表してしまえば、

そのまんま、カエデ科の「もみじ」が

落葉直前に彩づく様、または色づく様となり、

 

まさに紅葉(こうよう)の時期に紅葉(もみじ)が

落葉直前に色鮮やかに変色していく様

となってしまうようです。

 

で、この世のものとは思えぬ

紅葉(こうよう)の美しさは、たとえそれが、

銀杏が紅葉(こうよう)していても、

カエデが紅葉(こうよう)していても、

紅葉(こうよう)という美の代表とも思える

素敵で素晴らしい現象であると

いわざるを得ず、ということに

なるのかも知れないとも思われなくもないのです。

 

なので

「もみじはそれだけでもみじである」と

なってしまうような気も

しないでもないのかもとか、

考えざるも得ずというような気も

しないでもないのです。

 

「忘恩には無恥が伴う。忘恩はあらゆる恥辱へ最も強力に先導する。」

(クセノフォン「キュロスの教育」)

 

誰かに何かをしてもらう。

その何かがどんなに小さな物事でも、

その誰かがどんなに

どうでもいいような人であっても、

誰かに何かを

してもらったことに対する感謝の気持ちを

感じられない、あるいは感謝できない、または、

気付かない、はたまた忘れてしまうような人は、

どこかのシーンで恥をかかされる、あるいは、

恥ずかしい思いをさせられる、または、

恥辱を味わわされる確率を、

最も高くしているということに

なってしまうようです。

 

「好意を受けるばかりでお返しをしない男はまともな男じゃない。」

(プラトゥス「ペルシャ人」)

 

感謝の気持ちを知らない、あるいは

感謝すること自体を知らない。または、

何に感謝すべきさえわからぬ男は、

一挙手一投足、あらゆるシーンで、

その正体を現す。

そのような男はその時点ですでに、

まともな男ではないらしいので、

そのような男に関わること自体が、

無駄な時間であると確認できるのかも知れません。

 

「神々が我々を奉仕者として使い達成する。あのたいへん美しい仕事とはいったい何であるのか。」

(プラトン「エウティプロン」)

 

たいへん美しい仕事とは、

仕事そのものにあるのか、

日常生活における

パートナーシップにも垣間見えるような

あの美しき思いやりという名の

奉仕とも呼ばれるものでもあるのか、

奉仕それ自体が

美しい仕事であるべきであるのか、

そこもそれでたいへん悩ましい

命題であるような気も

しないでもないのです。

 

 

 

「秋深き(秋深し)隣は何をする人ぞ」(松尾芭蕉)

 

秋も深まると、人恋しさや人肌のぬくもりが

求められるということでもあるようです。

 

しかしながら、今はまだ秋の紅葉前であり、

秋もそれほど深まっているわけでもないので、

人恋しさとか人肌のぬくもりが欲しいだとかの

感愁にいたるまでもない季節であると

いえるようにも思われます。

 

それでも自分の今の孤独感と比べて、

隣の人はどれほどの孤独感、

隣の人はどのような生活をしているのか、

隣の人はどのような仕事をしているのか等々、

 

他者が気になるほどの孤独手前の孤愁は

じわじわと沸き起こってくる気配というか

雰囲気を感じ取ることができる

季節ではあるようです。

 

「思慮ある人は誰しも、法を国民性の表現と見なす。」

(「デモステネス弁論集」京都大学学術出版会)

 

時代の流れと共に、その都度、

法改正が行われるのは、

アタリマエとなるのかも知れません。

 

しかしながら、どの法を

改正するにしてもしないにしても、

それを策定する人間の中に、

誰一人として、一般人、いわゆる

普通の人というべき人間が

参加しているわけではないという点において、

その法は国民性を無視した法である、

あるいは、国民性を一切無視した政府の表象

または、表現であると、

考えるのが思慮ある人であり、

普通の人間であるということのような気も

しないでもないのです。

 

「事例は当座であっても、判例としては永遠である。」

(リウィウス「ローマ建国以来の歴史」)

 

これのメタファーとしては、

その場の出来事、あるいは事例は当座、または、

物事は当座であっても、その経験は知識として

永遠となる、という文言も

思い浮かべることもできるかも知れないけど、

あるいは、

出会いは当座であっても、その関係性から

生じた愛は永遠となる、とも考えられるし、

おカネがないという事例は当座であるけれど、

おカネがないと困るという事象としては

永遠であるとも思われるようにも考えられます。

 

「軽微ならざる事案が、見かけはきわめて穏当な形で発議される。」

(リウィウス「ローマ建国以来の歴史」)

 

見かけはきわめて穏当な形で、

実は重大な結末が隠されて、

見かけはきわめて穏当な形で、実は

醜悪なる事案が発議される場合も

多々あるようにも思われます。

 

政府は国民を欺くために、

実は醜悪なる戦略を国民には隠して、

国民に対しては見かけはきわめて

穏当な事案であるかのように見せかけて、

醜悪なる戦略実現のために、

穏当な事案であるかのように見せかけた事案を、

発議する場合も多いようにも考えられます。

 

「羞恥心が国民全般の楔(くさび)となって機能していた時代には、法は「その行為は正しくない」と記すだけで十分に役立っていたが、今ではそのようなことだけで怖気づく者など、誰一人として、いない。」

(リウィウス「ローマ建国以来の歴史」)