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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

政治家、官僚とは畑違いの

タレント等々が、

当選したりしなかったりという話題。

 

ともに承認欲求の強い人々

であるという共通項以外に、

素因関係、因果関係等々が、

見出せるとは考えにくいようです。

 

そこで、政治家、官僚は単なる

目立ちたがり屋の人であるだけであるとか

単に承認欲求が異様に強い稚拙な性格の

人間に過ぎない、とか、あるいは、

 

政治家、官僚は、なんの才があるわけでもない、

または中身の何もないタレントと同等、同様で

あるとかの認容も、けっして乱暴な

言い回しであるともいえないような気も

しないでもないのです。

 

「聞きたがらない者は、けっして何一つ学ぶことはできない。」

(デモステネス「弁論集」京都大学学術出版会)

 

「話し上手は聞き上手」という言葉もあるようです。

まずは聞く、なんであれ、誰であれ、

耳からの情報であるわけですから、

眼からの情報、臭覚触覚での情報同様に、

あらゆる情報は見逃さない、というスタンスは、

最重要でもあるのかも知れませんね。

 

「博学は知性を教えない。」

(ヘラクレイトス「西洋古典名言名句集」京都大学学術出版会)

 

物事を、見たり聞いたり

経験したというだけでは、

博学にはなれるかも知れないけれど、

知性品性を

身に付けたということにはならない

とも思われます。

知性品性というものは、博学の

さらにもっと先、つまりは物事の

なぜ?何のために?どうして?などをも

理解できたうえで身に付く

ものであるのかとも考えられるからなのです。

 

騒音車両の騒音が出現するメカニズムを

知っているということは博学となるのかも知れませんが、

それだけでは知性品性をも身に付けているとは

いえないようにも考えられるのです。

 

わざわざ騒音車両を乗り回している人々の、

心理的稚拙さ、社会人類学的ポジション、

ステイタス等々をも理解したうえではじめて、

騒音車両およびそれを乗り回している人々の、

心理的稚拙さ、そこに潜む悪徳、

社会的には比較的恵まれているのに、

そのポジションでは飽き足らず、

さらなるステイタスを求める彼らの醜悪度数

まで感知することで、博学と知性が

完結するような気もしないでもないのです。

 

「民衆は未来を見通すこともできず、目の前にぶら下がった恵与と安楽に釣られる。」

(ポリュピオス「歴史」)

 

これを政治家、官僚は、

おおいに利用しあざけり、

自分たちの私腹と権力を増幅

させることばかりに

専念できると思っているようにも

考えられなくもないのです。

 

「大衆とは、本来、神聖と思われたりしているものをからかったり揶揄したりすることを好む傾向にあります。彼らはソクラテスの本質を学ぶことよりも、ソクラテスをからかったり揶揄する劇が作られるのを喜ぶのです。」

(ルキアノス「甦って来た哲学者」)

 

衆愚な大衆は、人間として

大切なことや、人生において

重要とみられる真実真理よりも、

おちゃらけてふざけた芸や話題を

好むと思われているようです。

 

これではいつまでたっても優秀で、

真実真理に目を向けるような民衆は

育ちようもないので、政治家、官僚等は、

これらを取り締まることはせずに、

騒音車両も見逃して、

他者に迷惑をかけるでもない微々たる

小さな違反ばかりを

取り締まるばかりであるとも

考えられなくもないようにも

思われなくもないのです。

 

秋の長雨、秋雨(あきさめ)

などともいうけれど、

この時期は、天候や健康の異変に

気付くことも多いようです。

 

秋の長雨、秋雨よりも、

頭痛、腰痛、気分の落ち込み等、体の異変に

気を捉われる人も少なくはないとも思われます。

 

アタリマエに天候と体調は

密接なつながりもあるのだろうし、

これと同様に、哲学にとっても秋という季節は、

特別な季節ともなりうるようです。

 

四季のうちでは一番、

物思いにふける季節でもあり、

季節の中では一番、深い考察、広い視野、

敬い、崇敬の念に

気づき易い季節となるのも

この秋という季節特有の

風向きとか臭い、風への体感、空気感が、

人間を自然にそのような気分に

持ち運んで行ってくれるような特別で

あるような気もしないでもないのです。

 

「教育の役目は、徐々に経験を積んで経験したことに応用できるように、事柄の順序がどのようでそれらをどのように結び付けられるのかをいろいろな場合において日々示すことである。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」)

 

なので真の人生の師たる者、

文武両道に優れ、世の中のあらゆる

階級の人々との交流を経験し、

知識人、富裕層、専門家等々と

称される人々から、無学、貧困、組織暴力団等々と

称される人々にいたるまで多くの

交流関係を経験し、そこに彼なりの指針、意志、

矜持のようなものをもって、

それらの経験を、

順序だてて結び付けて、あるいは不順列にランダムに、

または関連付けていくつもの法則として、

いくつもの例を挙げられる人であるべきで

あるような気もしないでもないのです

 

「学を好めば、おのずから雑学の人となる。」

(イソクラテス「西洋古典名言名句集」京都大学学術出版会)

 

そもそも学とはなにか。

学とは、人生の道しるべを知ること。

学とは、人生の道しるべとなる情報を

あらゆる分野、あらゆるシーンにおいて、

入手しておくこと。

学とは、自分の人生を、自分だけのオーダーメイドで、

自分にとって最も快適で楽ちんに、

過ごすことを目的とした、あるいは達成するための、

情報を身に付ける作業。

 

学は好むとか好まないとかの問題ではなく、

自分の人生がどれだけ大切であるのか、

それを認識できる人間となるための

最低最小手段。

自分の人生をどれだけ大切に思えるのか、

その思いの度数が、学への情熱として、

そっくり反映されるものとも思われます。

その結果として単なる、

どうでもよい雑学博士として扱われるのか、

その結果として富と地位と自由を

どれだけ獲得できるのか、という問題でも

あるようにも考えられるのではないかとも、

思われなくもないような気も

しないでもないのです。

 

「勉強とは本来、学ぼうとする意志であって、その意志は強制するものではない。」

(クインティリアヌス「弁論家の教育」)

 

衆院選であれ何であれ、

選挙と名の付く選挙というシステムそのものが、

今どき資本主義、民主主義を標榜し、

ITだAIだの技術を手に入れた人類に、

相応しいものであるのかどうか、

そこのところの議論が

なされていないようにも思われなくもないのです。

 

選挙以前に選挙そのものの是非が問われず、

議論もされぬままにずるずると

現行の制度、システムを利用し続けるのが、

賢い人類への道へと

進んでいるということになるのか否か、

なんだかおバカがおバカそのままに、

選挙だ議会制だ民主主義だと

ほざいているだけのようにも

映るようで映らないのかも、それでもそのように

映るような気がしてならないようにも

思われなくもないような気も

しないでもないのです。

 

「魂は大気の中に、肉体は大地へと、それぞれがそれぞれに元の場所へ戻るのがよろしい。」

(エウリピデス「嘆願する女たち」)

 

そういえば、余命宣告を受けている僕も、

そろそろ神のもとへと

身罷(みまか)れる時期でもあるようです。

 

「露と落ち 露と消えぬる 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

(豊臣秀吉)

 

露にも満たない僕の存在、

露とも思えぬ僕の人生ではありましたが、

僕なりに、それなりに、それなりの、

夢の如くに素晴らしき人生を

謳歌させていただいたようにも

思われなくもないのです。

 

「こんなにわずかな灰がヘルクレスの灰である。あれだけ大きかった巨体がこんなに、こんなに小さな灰となってしまった。おお、ディタンよ、なんという巨大が廃空に消えたことか。」

(セネカ「オエタ山上のヘラクレス」)

 

僕のような男が、

露ほどにも満たぬ僕のような男が、

廃空に露ほどにも満たずに

消えて逝ってしまったところで、

なんということもなく、

どうというほどのこともなく、

ああというほどもなく消えて逝ったところで、

それは自然の中の自然の露ほどにもなき

自然な現像であるようにも考えられます。

 

「人はそれぞれ人生を終える時に肉体を大地に天空に葬れば事足れり、とすべきであるのだ。」

(クセノフォン「キュロスの教育」)

 

人の死を、一人の人間の死を、

他の物事とことさらに区別して、

あるいは他の物事とは違って、または

他の物事以上に特別に、

扱う必要などはない、ということなのかも知れません。

 

「閑暇(かんか)は学びがなければ死に等しい。生ける人間の墓場である。」

(セネカ「論理書簡」)

 

僕は暇な時間というものを

体現できたためしもない人生で

あったようです。それでも、

僕と同じように感じている人、

暇をもてあます人、暇をもてあましている人、

暇がない、と嘆いている人、

それぞれがそれぞれに、そこに知的、

知性的、学びの瞬間をとらえているのか、

学びとは無縁な閑暇(かんか)を

満喫してしまっているのか、

そこにも人生の岐路となるヒントが、

隠されているような気も

しないでもないのです。