パワハラだ、カスハラ、セクハラ、
モラハラ等々……、〇〇ハラが多すぎて、
はらはらしてしまう…ではなくて、
その対極に当たる情動についての
言葉も議論もなされていないようにも思わます。
何事も両者の言い分を聞く、
というスタンスを貫くのなら、
もう少し、パワハラされないための議論であるとか、
カスハラされる人の傾向と対策、
ハラスメントを受ける人々の
情動と言葉遣いであるとか、
その根底にある人格的、品格的、
知的レベルの検証もしていくことで、
〇〇ハラの統合的解決策も見出して、
ゆけるような気も
しないでもないのです。
「技術者たちよ、技術を産むことのできる者と、技術がそれを使用する者たちにどのような害や利益を与えることになるかを判断できる者たちの才とは全く別なのだ。」
(プラトン「パイドロス」)
ITだAIだプログラミングだのと
能書きをいう人々は、自分たちが所詮、
技術者なのだということを
忘れてはならない、あるいは、
忘れないでほしい。
技術を産むことのできる才を
持つ者の数は多く、その技術の真価を
判断できる才を持つ者の数は少ない。
「誰にもわかりやすく、もっともらしさによって証明を行っている議論は、ほら吹きであって、倫理学や幾何学においても、人はそういう議論には用心していないと、すっかり騙される。」
(プラトン「パイドン」
ほら吹きではない議論、あるいは、
真実を語るような議論は、
誰にもわかりやすくはなく、
もっともらしくもなく、
小難しく面倒くさい、ということに
なるのかも知れません。
「そなたらはなぜ野望という、神々の内で最悪の神を追い求めるのですか?おやめなさい。それは不正な神なのです。」
(エウリピデス「フェニキアの女たち」)
昨今では、野望という言葉が、
まるで希望とか夢であるとか、
善いようにも用いられる場合も
あるようです。
しかしながら、誰もが、
少しでも立ち止まって、
少しでも深く考察するならば、
野望には陰謀とか調略とか、
人を欺き、人を傷つける因子も、
含まれていることに気づくはずです。
野望などなくても善い。
野望など抱かなくとも、
研鑽と努力により、夢は実現し、
希望はいつでも、その先に、
見え隠れしているようにも
思われなくもないのです。
「慎重であること、これこそが真の勇敢さである。」
(エウリピデス「嘆願する女たち」)