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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

単独犯は減少傾向にあり、

複数犯が増加しているようにも思われます。

 

ひとりでは何もできない男が増え、

そのくせ複数ともなれば残虐の限りを犯す。

情けない男が増えているのかも知れません。

 

一人ではなにもできない。これは、幼少期以来、

男子が男子同士で一対一でケンカを

する機会が減少していることと、なんらかの

関係があるような気もしないでもないのです。

 

情けない男が増えている。そのくせ、

情け深い男は皆無に近く減少しているようです。

 

「世の中とはそんなもの。不動のものなど何一つない。」

(エウリピデス「イオン」)

 

アタリマエに、世の中とは

どんなものなのかさえわかりません。

どんなものなのかさえわからぬものに、

こんなものも、あんなものも、それこそ

そんなものさえないといえるのかも知れません。

 

だって、世の中に不動のものなどなく、

人の心も、今、人が呼吸している空気さえ、

同じ酸素濃度の空気など少なく、今、この瞬間、

我々がアタリマエに吸ったり吐いたりを

繰り返している呼吸の、その空気さえ、

その瞬間この瞬間あの瞬間では、すべて

異なる空気を呼吸している、ということに

なりかねなくもないようです。

 

心も空気も、社会も財産も、己の立ち位置さえ、

刻々と変化しているものこそ実態であるような

気もしないでもないのです。

 

「予想を超える大きな喜びは、苦悩や恐怖にもまして、人の心を錯綜させ迷走させる。」

(プルタルコス「アラトス/英雄伝」)

 

街なかでも、アタリマエに、

一人で燥(はしゃ)いでいる人は

あまり見かけないようです。

しかしながら、これが二人三人となると、

とたんに一人くらいは無駄に燥いでいるとも

思われる人が出現するようにも思われます。

 

プルタルコスは、無駄に燥ぐな、浮かれるな

と勧告してくれているのかも知れません。

 

燥いだあとの、浮かれたのちの、

テンションはそのエネルギーを

どこにもっていくのでしょうか。

 

たぶん、そのエネルギーは、次に、

落ち込み、孤独、寂しさというエネルギーに

変異されてしまう場合があるような気も

しないでもないのです。

 

なのでプルタルコスは、

騒ぐな、燥ぐな、それは人生を錯綜迷走

させてしまうほどの危機をもたらすものである

と進言してくれているようにも思われるのです。

 

「いや心配ないよ、君、我々にはそれに対抗する強力な解毒剤がある。それは真実という悟りと、どんな場合でも正しさを失わぬ理性だ。これらを使用すれば、あんな空虚な馬鹿げた話にどれ一つにも煩(わずら)わされないですむはずだ。」

(ルキアノス「嘘好き人間」)

 

 

人生の意味などはない。

働く事の意味などもない。

大切なのは、それを考えようとした

情動であるようにも思われます。

 

逆に問い正して問わなくてはならないのは、

だったら人生がなかったら…?

仕事がなくなってしまったら…?

と説かなくてはならないということで、

あるような気もしないでもないのです。

 

同じように、死にも、意味などはなく、

死がそこにあることで、

今の僕のように余命宣告を受けたことで、

死が近々訪れることを確約され、それゆえの、

好き放題、飲み放題、暴飲暴食の

限りをつくすこともできるし、

 

何にもまして、この心身を襲う苦悩苦痛からも

近々解放されることも、おおいに

期待できるのかとも考えられるのです。

 

もし、人間に死が訪れないのなら、

もし、死に意味があり、

もし、死がなくなってしまったなら、

考えるだけでも恐ろしく、それこそ、

考えるだけで死ぬほどの苦しみを

抱え続けなければならないということに、

なってしまうのかも知れません。

 

人生に意味などはない。

働く事にも意味などはない。

そして、死にも意味などはなく、

大切なのはそれを考えるという思考の、

過程にある情動であるようにも

思われなくもないような気も

しないでもないのかも知れません。

 

「善き人については、これを称賛するにとどまらず、さらにまねなければならない。」

(イソクラテス「弁論集」京都大学学術出版会)

 

現代においては、善き人にたいして、

これを素直に称賛することもできずに、

これにケチをつけたり誹謗中傷する人さえ、

出現してしまっているようです。

 

しかも現代社会においては、このように、

人を誹謗中傷するような人々を、

罰する仕方も確立されていないという、

なんともはや、善悪をもまともに解釈できない

ていたらくであるといっても過言ではない

ようにも思われてならないのです。

 

「最も大切にすべきは、ただ生きることではなくて、善く生きることである。」

(プラトン「ソクラテスの弁明」)

 

ただ生きるだけでは、

人生はあまりに虚しく空虚である

とも考えられます。

 

人は善なる行動、善なる情動、

善なる一挙手一投足を目指し、

心がけ、その情動に基づき、

行動し続けることによってのみ、

至福を手にすることができるような

気もしないでもないのです。

 

「正しく生きることの選択は、我々の手中にある。」

(カルキディウス「プラトン/ティマイオス」)

 

我々の人生は、

選択の繰り返しとなるようです。

 

その選択が我々個人個人の脳によって

採択できるのだとしたら、

至福が我々の究極の選択肢であるいじょう、

我々が正しく生きるのも、

我々が至福にいたるのも、

我々が選択により採択できるのも、

もうすでに我々の手中にあるも

同然であるといえるようにも思われます。

 

「愚かなり、目の前にあるものを捨て、ないものを追い求める者は、欲望に憑かれてあるまじき所業に手を染める輩はいずれも、最悪の困難を覚悟するのではなく、成功の暁に手にするものを当てにするのが世の慣(なら)いだ。」

(デモステネス「アリストテレス弾劾」)

 

現代の

象徴ともいえる闇バイトにはじまる最悪の

シナリオがこれに当たるとも考えられます。

 

しかしながらそれは、「世の慣い」

などではなく、現世に生きる人々の

悪徳とでもよばれるようなものである

ような気もしないでもないのです。

 

今、自分が何をしたいのか。

その「今」とはいつなのか。

数秒後であるのか数分後であるのか、

はたまた「今日中」でもよいのか。

 

その「今」は「今日」なのか、

その「今」は「年内」なのか、

その「今」は「数年以内」でもよいのか。

 

そして、自分がしたいと思う欲望は

正であるのか邪であるのか、

その欲望を満足させる方法に問題はないのか、

満足させる方法に正であるとか邪であるとかの、

問題はないのだろうか。

 

このようなことを考えていると、自然に、

自分に向き合うということ、

自分とはどのような生き物であるのか、

自分はどう生きるべきであるのか等々が、

見えてくるような気もしないでもないのです。

 

自分を知るということはそういうこと、

自分を知るということは考えること、

自分を知り、自分に素直に向き合うということは、

そういうことであるのかも知れません。

 

「私は見ようとする人には見えませんが、見ようとしないでも見えるのです。私は喋ってもいないのに喋ります。そして私は走ってもいないのに走るのです。私は嘘つきですが、いつも本当のことを示唆します。さて私は誰でしょう?」

(「ギリシャア詞歌集/西洋古典名言名句集」京都大学学術出版会)

 

このなぞなぞの答えは「夢」

睡眠時に見る夢は、

何の脈略もないけど、

何の意味もないとは思いたくもない。

何かを示唆しているような気も

しないでもないのです。

 

「ここでひと風呂浴びて、キャベツをどっさり食べれば、頭の重いのもすっとして、今君の頭にかかっている憂いの雲もすっきりする。」

(アテナイオス「食卓の賢人たち」)

 

古代エジプトから古代ギリシャの

人々にとっては、

酔い覚ましであるとか体調の

悪いときには、かならず、

温野菜を食したという習慣が

多くの文献に残っているようです。

 

なかでもキャベツは万能の食材として、

健康法にはかかせぬ存在であったのかも知れません。

 

「食卓の賢人たち」は、

古代の賢人たちが食卓を囲みつつ

交わされた会話を取り上げたもので、

誰が一番の食通であるのか

というグルメ自慢を競い合い、

その議論のなかにおいて、お互いの

論理、弁論術のスキルを

確認し合いながらも、当時の

最新情報から古典知識にいたるまで、

まあありとあらゆる話を掲載した、

現代に残る古代のグルメ事情、

賢人たちの哲学、健康法等々を

垣間見ることのできる書籍であるとも思われます。

 

「騙されないように用心する者は、用心しているつもりでもまだ用心できていない。」

(プラウトゥス「捕虜」)

 

騙されないように用心するということは、

その時点で遅れをとっているといえそうです。

 

騙されないように用心するからには、

それ以前に、他者を騙せるくらいの才知を

身に付けているべきで、その才知を、

その知識、その対応力等々を

身に付けてもいない人間が、いまさらながらに、

騙されないための用心などということ自体、

チャンチャラおかしなことだといわざるを

得ぬような気もしないでもないのです。

 

医者になるのに、医者の国家試験を受けるための

準備を始めても、それ以前に、全教科

とはいわないまでも、英数国くらいの

基本教科の習得がままならなかったようでは、

医者の国家試験どころの騒ぎでもないというのが、

社会通念であるようにも思われなくもないのです。