辞世66 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

人は自分の弱さを

乗り越えることに心血を

注ぐようなまねはしないらしい。

孤独に耐える弱さを乗り越えようと

なんらかの必死な努力も

怠るようにできているような気も

しないでもないのです。

それぞれに弱さがあって、

それぞれがそれぞれの弱さを

克服しようと必死になることも

けっしてしないようにも

思われなくもないのです。

それがそれぞれの魅力となっていたり、

それがそれぞれの輝きとなる場合もあったり

する場合があることを人は本性的に

察知しているからなのかも知れません。

だから生きていける。だから人としての

魅力をそれぞれが放ち続けていると

考えられなくもないのです。

 

「各人はいつも自分自身の割符を探し求めている。」

(プラトン「饗宴/パイドン」)

 

自分にぴったりと当てはまるもの、

自分に相性のよいもの、

それらを自身の内に探し求めるならば、

それが文学となり哲学とも倫理論理学とも

成っていくのかも知れません。

しかしながらそれを自身の外に求めるならば、

それが仕事、友情、恋愛等々とも

なっていくのかも知れません。

それでもそれら外に求め続けても、結局は、

自分の内部といつかは

向き合わねばならぬ瞬間がおとずれ、

それならば最初に言葉ありき、

最初に哲学、倫理論理学を

修めてしまっておいたほうが、後々、

楽チンに生きられるような気も

しないでもないのです。

 

「人間の本性は完全無欠ではあり得ないが、的を射当てる回数のいちばん多い人、外すのがいちばん少ない人が最も優れた人間なのである。」

(ディオニシオス「トゥキュディデス論」)

 

現実の実生活においては、これを正確に

計測することは不可能であるとも思われます。

なのでこれらを見抜き、言い当てられる人こそ、

賢者の才に恵まれている人であるとも

考えられなくもないのです。

身の回りに賢者と思われる人が、

思い浮かばないのであれば、

その環境が素敵な環境であるとは考えづらく、

賢者を探し求めることも、人生の課題としては、

有意義で有効な手段ともなりうるのかも知れません。

 

「自分の身も心も自分自身で美しいと思える人間には鏡が必要ない。自分の身も心も醜くなっていると自分自身で、不安になっている者にこそ鏡は必要なのだ。」

(プラウトゥス「幽霊屋敷」京都大学学術出版会)

 

自分の心が清廉潔白、

雲一つない青空の如く

清く澄み切っていると思える人間には、

鏡は無用であるのかも知れません。

しかしながら多くの人は心に何かしら、

やましいこととか不安を抱え、

鏡を手放せなくなっているのかも知れません。

虚栄虚飾虚勢を捨てれば、

鏡を手放した生活も夢ではないとも

思われなくもないのです。

 

僕はヘルパーの女性たちに

「たまには鏡をみて、容姿を気にするのも大事だと思う」

と言われていますが、いっこうに

鏡を見る気にもなれず、IKKOに

会う時間はあっても、鏡を見るような

時間はないとも思われなくもないのです。

基本的に、鏡を見る時間が惜しい、

鏡を見ている時間がもったいない、

鏡を見ている時間は無駄であり、

鏡を見るという情動を持つ男を、たいへん

軽蔑してみたりもいったりきたりも

しているような気もしないでもないのです。