人は自分の弱さを
乗り越えることに心血を
注ぐようなまねはしないらしい。
孤独に耐える弱さを乗り越えようと
なんらかの必死な努力も
怠るようにできているような気も
しないでもないのです。
それぞれに弱さがあって、
それぞれがそれぞれの弱さを
克服しようと必死になることも
けっしてしないようにも
思われなくもないのです。
それがそれぞれの魅力となっていたり、
それがそれぞれの輝きとなる場合もあったり
する場合があることを人は本性的に
察知しているからなのかも知れません。
だから生きていける。だから人としての
魅力をそれぞれが放ち続けていると
考えられなくもないのです。
「各人はいつも自分自身の割符を探し求めている。」
(プラトン「饗宴/パイドン」)
自分にぴったりと当てはまるもの、
自分に相性のよいもの、
それらを自身の内に探し求めるならば、
それが文学となり哲学とも倫理論理学とも
成っていくのかも知れません。
しかしながらそれを自身の外に求めるならば、
それが仕事、友情、恋愛等々とも
なっていくのかも知れません。
それでもそれら外に求め続けても、結局は、
自分の内部といつかは
向き合わねばならぬ瞬間がおとずれ、
それならば最初に言葉ありき、
最初に哲学、倫理論理学を
修めてしまっておいたほうが、後々、
楽チンに生きられるような気も
しないでもないのです。
「人間の本性は完全無欠ではあり得ないが、的を射当てる回数のいちばん多い人、外すのがいちばん少ない人が最も優れた人間なのである。」
(ディオニシオス「トゥキュディデス論」)
現実の実生活においては、これを正確に
計測することは不可能であるとも思われます。
なのでこれらを見抜き、言い当てられる人こそ、
賢者の才に恵まれている人であるとも
考えられなくもないのです。
身の回りに賢者と思われる人が、
思い浮かばないのであれば、
その環境が素敵な環境であるとは考えづらく、
賢者を探し求めることも、人生の課題としては、
有意義で有効な手段ともなりうるのかも知れません。
「自分の身も心も自分自身で美しいと思える人間には鏡が必要ない。自分の身も心も醜くなっていると自分自身で、不安になっている者にこそ鏡は必要なのだ。」
(プラウトゥス「幽霊屋敷」京都大学学術出版会)
自分の心が清廉潔白、
雲一つない青空の如く
清く澄み切っていると思える人間には、
鏡は無用であるのかも知れません。
しかしながら多くの人は心に何かしら、
やましいこととか不安を抱え、
鏡を手放せなくなっているのかも知れません。
虚栄虚飾虚勢を捨てれば、
鏡を手放した生活も夢ではないとも
思われなくもないのです。
僕はヘルパーの女性たちに
「たまには鏡をみて、容姿を気にするのも大事だと思う」
と言われていますが、いっこうに
鏡を見る気にもなれず、IKKOに
会う時間はあっても、鏡を見るような
時間はないとも思われなくもないのです。
基本的に、鏡を見る時間が惜しい、
鏡を見ている時間がもったいない、
鏡を見ている時間は無駄であり、
鏡を見るという情動を持つ男を、たいへん
軽蔑してみたりもいったりきたりも
しているような気もしないでもないのです。