辞世36 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

「辞世」が長く続いてしまっているようです。

「辞世」のくせに、いつまでもだらだらと

死を後回しにしているようで、

申し訳なくも思っています。

 

末期がんからの余命宣告を受け、

訪問診療を希望したのですが、

訪問診療を始めるにあたっても初診は、

外来受診が推奨されているようです。

 

通院が厳しいからの

訪問診療でもあるはずなのですが、

その訪問診療に初診外来受診が

推奨されているという事態も、

なかなか興味深いものであるのかも知れません。

 

「君は乗船した。航海に出た。港に着いた。では下船せよ。」

(マルクス・アウレリウス「自省録」)

 

我々は生という船に乗船した。

人生という荒波の航海に出た。

死という安息の港に辿り着いた。

それでは下船し、安寧を手に入れよう。

 

くらいに、解釈しています。

 

僕は今、余命宣告を受け、死刑ではなく、

死期が差し迫っているので、

このように解釈していますが、それ以前にも、

多くのシーンでアウレリウスのこの言葉を

重用していたのかも知れません。

 

それぞれが、それぞれの立ち位置で、

アウレリウスの箴言を受け止めれば、

それぞれに安堵感を味わえるような

箴言であるとも思われなくもないのです。

 

「我々の人生は闘いなのである。明日にでも勝利を手にする者もいれば、もっとあとになる者もいる。今日だという者もいる。」

(エウリピデス「嘆願する女たち」京都大学学術出版会)

 

運不運も闘いの表象となる場合も

あるのかも知れません。

しかしながら、

幸不幸、運不運を手繰る寄せるには、

それ以前に、努力、切磋琢磨、

清廉潔白という自分自身との闘いに

勝利しておく必要もあるような

気もしないでもないのです。

 

「苦難や危機に際して人が本当に必要とするのは、必ず言葉であって、金や物ではあり得ない。明日死ぬのか、気の毒だから、一億円あげよう。これでその人は救われますかね。だから、人を救うのは言葉であって、その意味で言葉こそが命なのだと、私は言うわけです。」

(「暮らしの哲学」池田晶子)

 

言葉は論理、言葉は倫理、

論理も倫理も幸福さえも、

言葉なくしては

思考することさえできないようです。

 

「今までの自分は、何だったのか。本当のことは、何なのか。やはり、本当のこと、真実を知らなければ死ねない。その恐れから、真実の『言葉』への強烈な渇きが生じたのですね。やがて彼は、『言葉』にであい、『言葉』に目覚めた。そして生死を超越し、今は思索の日々を送っているようです。」

(「暮らしの哲学」池田晶子)

 

幸不幸も運不運もはじめに言葉ありき。

死生観さえも言葉で

大きく左右されてしまうのかも知れません。

 

「家も船もあらゆるものの根底の部分は、できるだけ堅固にしておかねばならないが、人間の人生も行動も、その根源や基礎は真実で正しいものにしておかなければならない。」

(デモステネス「オリュントス情勢」京都大学学術出版会)