「辞世」が長く続いてしまっているようです。
「辞世」のくせに、いつまでもだらだらと
死を後回しにしているようで、
申し訳なくも思っています。
末期がんからの余命宣告を受け、
訪問診療を希望したのですが、
訪問診療を始めるにあたっても初診は、
外来受診が推奨されているようです。
通院が厳しいからの
訪問診療でもあるはずなのですが、
その訪問診療に初診外来受診が
推奨されているという事態も、
なかなか興味深いものであるのかも知れません。
「君は乗船した。航海に出た。港に着いた。では下船せよ。」
(マルクス・アウレリウス「自省録」)
我々は生という船に乗船した。
人生という荒波の航海に出た。
死という安息の港に辿り着いた。
それでは下船し、安寧を手に入れよう。
くらいに、解釈しています。
僕は今、余命宣告を受け、死刑ではなく、
死期が差し迫っているので、
このように解釈していますが、それ以前にも、
多くのシーンでアウレリウスのこの言葉を
重用していたのかも知れません。
それぞれが、それぞれの立ち位置で、
アウレリウスの箴言を受け止めれば、
それぞれに安堵感を味わえるような
箴言であるとも思われなくもないのです。
「我々の人生は闘いなのである。明日にでも勝利を手にする者もいれば、もっとあとになる者もいる。今日だという者もいる。」
(エウリピデス「嘆願する女たち」京都大学学術出版会)
運不運も闘いの表象となる場合も
あるのかも知れません。
しかしながら、
幸不幸、運不運を手繰る寄せるには、
それ以前に、努力、切磋琢磨、
清廉潔白という自分自身との闘いに
勝利しておく必要もあるような
気もしないでもないのです。
「苦難や危機に際して人が本当に必要とするのは、必ず言葉であって、金や物ではあり得ない。明日死ぬのか、気の毒だから、一億円あげよう。これでその人は救われますかね。だから、人を救うのは言葉であって、その意味で言葉こそが命なのだと、私は言うわけです。」
(「暮らしの哲学」池田晶子)
言葉は論理、言葉は倫理、
論理も倫理も幸福さえも、
言葉なくしては
思考することさえできないようです。
「今までの自分は、何だったのか。本当のことは、何なのか。やはり、本当のこと、真実を知らなければ死ねない。その恐れから、真実の『言葉』への強烈な渇きが生じたのですね。やがて彼は、『言葉』にであい、『言葉』に目覚めた。そして生死を超越し、今は思索の日々を送っているようです。」
(「暮らしの哲学」池田晶子)
幸不幸も運不運もはじめに言葉ありき。
死生観さえも言葉で
大きく左右されてしまうのかも知れません。
「家も船もあらゆるものの根底の部分は、できるだけ堅固にしておかねばならないが、人間の人生も行動も、その根源や基礎は真実で正しいものにしておかなければならない。」
(デモステネス「オリュントス情勢」京都大学学術出版会)