令和もはや6年となり、
昭和はよりいっそう
遠いものとなっていくようです。
おもえば平成が
大転換期であったようにも思われますが、
平成は様様な転換期であると同時に、
平成は、
混沌を招きよせていた時期でもあり、
悪徳を育てていた時期でもあったような
気もしないでもないのです。
「私は、近所の百姓たちが、どんな態度と確信をもって最後の時を過ごしたらよいかなどと考え込むのを一度も見たことがない。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
モンテーニュは、近所の百姓たちからも、
何かを学ぼうとしているようです。
生きることに精一杯の人々は、
その瞬間、その瞬間がすべてであり、
そこには歓喜も悦楽もないかわりに、
苦悩も煩悩も少ないのかも知れません。
どちらがどうということではなく、
僕は、百姓のようになりたい。
何も考えずに一生懸命生きて、
死を意識する間もなく死んで行くほうが、
なんとなく、楽ちんであるようにも、
思われなくもないようです。
「自然は彼に、死にかけたときでなければ死を考えるなと教えている。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
…か…どうかはべつにして、
死を考えずに生きる
という生き方も、楽チンで、
もともとが愚かである僕にとっては、
そのほうがアタリマエで自然でもあるようです。
「カエサルも、もっとも思いがけない死が、もっとも幸せで気楽な死だと考えた。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
どちらがどうという問題でもなく、
なりゆきに、自然に、
お任せするほうが楽チンであるし、
お任せするしかないようにも思われます。
「ああ、神よ、これからは、愚鈍を教える学校を守り立ててゆこうではないか。これこそ学問が我々に約束する究極の果実である。しかも、愚鈍はそこへ弟子たちをこんなにも楽々と導いてゆく。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
愚鈍そのものを学ぶのではなく、
愚鈍のように生きることの
深淵を学ぶことも
肝要である考えられます。
「おそらく死はよくも悪くもないものであろう。あるいは望ましいものかもしれない。静かな、深い憩いと眠りの中に生きて、夢も見ないでいられることくらい快いことはない。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
プラトンの
「ソクラテスの弁明」からの引用ですネ。
なんにしろ、死にとらわれることはない
ということなのかも知れません。
「ソクラテスは知らない。」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534120914.html