寒暖疲労などという言葉が
使われだしたのは、
いつのころからのことだったのか、
それさえ思い出せない僕は、
寒暖疲労以前に肉体疲労、経年疲労、
つまりは寒暖疲労以前にポンコツ。
僕のようなオンボロ老いぼれは、
寒暖疲労も、温暖化、気候変動も、
もはや言葉にすること自体なまいきで
恥ずかしいような気もしないでもないのです。
「死への準備は死そのものよりも苦痛であるであろう。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
モンテーニュだって、
死を体現したわけでもないだろうけど、
この思考は、
納得できるような気もしないでもないのです。
我々は、実際の実態を体現するまでは
必要以上に、その状況を不安と
解釈する傾向にあるようです。
なので、死においても、
実際の死というものは、
我々が不安に思っている以上の
ものではないように考えて、
問題もないのかも知れません。
「死が目前にあるという感じは、我々を、どうしても避けられないものは避けまいというとっさの決心で元気づけることができる。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
僕は少年期から不良で、
ケンカにあけくれる少年でした。
今でいうやんちゃ、ヤンキー、
昔はつっぱりなどと称された
少年期を送っていました。
当時の僕は、毎回
このケンカで死ぬかもしれない
という決意で臨んでいたのです。
ケンカによって死は
避けられない事実である可能性が高いので、
とっさに「それは受け入れよう」という決心で、
挑むことによって、かえってその勝率が、
上げられたものであるとも考えています。
「あなた方は死に方など知らなくとも少しも案ずることはない。自然が、あなた方のために、その務めを果たしてくれるであろう。そんなことを気に病む必要はない。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
自然は大きく、雄大で、
自然はアタリマエに自然に、
アタリマエの状況をアタリマエに、
我々に提供してくれるようです。
「急激で確実な不幸に会うほうが、長い間、不幸にびくびくしているよりもつらくない。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))
起こりえることには備え、
避けられぬことは避けられぬとして受け入れ、
その両輪のバランスを図ることが、
我々の任務でもあるのかも知れません。
「我々は死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱す。」
(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))