曙光(しょこう) 5 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような心が…ほしい…。

 欧米では

 キリスト教教育が行き届いている。

 日本では

 信仰、宗教、倫理、哲学、論理等々、

 稚拙な教育が行き届いてしまっているようです。

 

 https://www.msn.com/ja-jp/news/national/

 

 そこで、

 「信仰、宗教を政治に持ち込んではダメ」

 という幼稚なルールが

 必要になってくるのだとも考えられます。

 

「それゆえ我々あとから生まれた者にとって、道徳の発生に対する根本的な洞察が困難になる。

 我々がそれにもかかわらずこれらの洞察を見出したとしても、それらは粗野に聞こえる。 

 あるいは倫理を誹謗するように思われる。」

(「曙光」ニーチェ)

 

 風習が倫理化されて、

 それが規制概念となってしまっているような

 現代社会においては、

 当の現代に生きる我々にとって、

 そもそもその風習が道徳化あるいは

 倫理化された論理の洞察が

 困難なものとなっています。

 

 もし、これを論破しようものなら、

 それは倫理を、道徳を、

 誹謗する行為として

 扱われてしまうような

 気もしないでないのです。

 

「たとえば主要命題が直ちにそうである。

 倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より他の何ものでもない。

 風習とは、しかし行為と評価の慣習的な方式である。」

(「曙光」ニーチェ)

 

 そもそも風習とは、

 その時々の権力者、

 おもに男どもの都合の良いように、

 

 「倫理的である」または

 「道徳的に正である」などとして、

 行為と評価を慣習的に

 手なずけたもののようなものである

 ようにも思われなくもないのです。

 

「慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。そして生活が慣習によって規定されることが少なければ少ないだけ、それだけ一層倫理の範囲は小さくなる。」

(「曙光」ニーチェ)

 

 たとえば、ITとかスマホのように、

 未だ歴史を持たぬ技術や文明文化には、

 慣習の命令が全くないので、野放し、

 いや、倫理も全くない。

 そして慣習によって

 規定されることが少ない分だけ野放し、

 いや、倫理道徳の範囲も小さく、

 マナーもルールもエチケットもなき、

 醜悪なる社会へと進んでいるようにも

 考えられないわけでもないとも思われます。

 

「自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを望むから、非倫理的である。」

(「曙光」ニーチェ)

 

 僕は純粋に、

 自分と神に忠実に、

 フィシスに依存し、

 

 ノモスに依存しないことを

 望むから非倫理的であり、

 不道徳であるのかも知れません。

 

フィシス──自然の摂理論理、宇宙法則、自然本性理

ノモス──人間の勝手な法と秩序、人間の勝手な論理倫理

 

「世俗な哲学者たち18」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12634972020.html