あのジェイムズ家の娘アリスの日記26 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

 コロナは第6波から第7波へ、

 ウクライナとロシアはより過酷な状況へ、

 

 コロナとロシア

 

 どちらか先に収束に向かう見通しなどは、

 ありえないものなのでしょうか。

 

1891年 ケンジントン

「私たちは常に石炭を補給するが如く、将来使えるようにと無意識に情報を取り入れている。」

(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)

 

 無意識にも意識的にも、

 知的情報を避けているのではないかと

 疑いたくなるような人もいるようです。

 

 無意識に取り入れている情報にも

 知的なものとそうでもないものもある。

 

 なかにはまるで意識的に

 後者ばかりを取り入れて

 生きてきたのではないかと疑いたくなる輩も

 確かにではありますが存在しているようです。

 

「一日に5,6回ほど『キャサリンにそれについて聞いておかないと』とか『これについて調べないと』とか、いつかその知識が必要かもしれないと考えて言っていることに気付く。そして突然『いつか』は、私に関していえば終わったのだと考え、はっとやめてしまう。

 自然で単純で、たいへん好ましい考え方だ。死とは霊的なものを取り上げるというよりはむしろ自然のものを静かに落としていくようなものである。その時が近づくにつれ、それは疑いもなくもっと肯定的なものに見えるのだろう。」

(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)

 

 僕は67歳で持病をいくつも抱え、

 そのうちいくつかは今すぐ僕の命を奪っても

 不思議でも何でもないものでもあるけれど、

 知的好奇心が衰えることはない。

 

 明日死ぬと知らされてもたぶん、

 それは変わらないのだと思われます。

 

 ただ、死は自然なもの、性欲とか食欲とか、

 ノモスの世界ではなくフィシスの世界ゆえんの人間としての、

 自然なものを静かに落としていく、自然なものをも捨てていく、

 ということではあるのかも知れません。

 

 そして何より僕が不思議なのは、

 アリスのように

 「キャサリンに聞いておかないと」とか

 「調べないと」とかの感情が湧き上がることが

 自然であると思われるのにというのも人間は、

 自然の中の、宇宙の中の、ほんの塵のような存在で、

 その知識も塵のような、あるいは塵以下の微小なものであるはずなのに、自信満々で、あるいは怠慢すぎて、または愚か者すぎて、何も知ろうとしないスタンスの人間が多すぎるということで、それが僕にとっては不思議でしようがないのです。

 

フィシス──自然の摂理論理、宇宙法則、自然本性理性

ノモス──人間の勝手な法と秩序、人間の勝手な論理倫理

 

「ハイデカー 9」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12590213725.html

 

「九月三日

 この死の時に、どれだけ多くの人々が私に『心打たれ、印象付けられた』かを知るのはたいへんありがたい。

 しかしその人たちが、このうんざりする旅路のもっと早い段階で、『心打たれ、印象付けられた』と胸の内を明らかにしようと思ってくれていたら、どんなに励まされ支えられただろうかと考えずにいられない。」

(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)
 

 僕にはアリスの驕りと自意識過多、

 世間知らずなアリスの幼さが

 吐露されてしまったようにも思われなくもなかったのでした。

 

 誰もが己の死の時に、周囲の人々から、

 「貴方の言動に心打たれた」

 「貴方の言動は印象深いものであった」

 などと言われれば、アリスのようにたいへんうれしいしありがたいと感じるのでしょう。

 

 しかしそれをもっと早く、自分の死の時ではなく、

 自分が若く血気盛んであったときに、

 それと同じような言葉を聞かされていたら、

 “どんなに励まされ支えられただろうかと考えずにいられない”

 と考えるのは甘い考えで、稚拙であるとさえ感じてしまうのです。