あのジェイムズ家の娘アリスの日記27 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

 昼のお弁当を買い求める会社員、

 男は2~3人以上で3密を守れない、

 女性は一人で買いに来ている人も多く見かけます。

 

 男は何故か一人は少ない。

 女性のほうが3密を守れるようです。

 

「そして、いつも群衆と一緒につるんで、

 ついには自分というものを忘れ去って

 生きていくがいい。」(「力への意志」ニーチェ)

 

「オルガヌム 11」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12540854971.html

 

 ニーチェもアリスも知らなくても、

 孤高を保てる男は素晴らしいけど、

 3密も守れぬ男は醜劣であるようです。 

 

「日記の間隔が長いのは精神的不毛をさすわけではない。私の広い額は今までと変わらず芽を出したばかりの考えでいっぱいになっている。

 しかし、悲しいかな、身体はますます調子が悪いのだ。

 皆さんには申し訳なく思う。なぜなら私の伝えるべきことさえ伝えていないかのように感じるからである。

 この文章にも、もっと情熱がほとばしり出て、文句をいう調子がより少なければいいのだが、どうやらこれは私の生来の性格からきているらしい。」

(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)

 

 まず、アリスを羨ましいと思うのは、

「皆さんには申し訳なく思う。なぜなら私の伝えるべきことさえ伝えていないかのように感じるからである。」と思えることです。

 

 自分の思考を、自分の思想を、誰かが、

いや、誰かがどころか「皆さん」が伝えてほしいと願っているなどと、アリスが自分で本当に思えるのなら、アリスをとっても僕は羨ましく思うのです。

 しかしながら、ここはアリスが自分の身体の悪化を察知し、“伝えきれない思い”の逆説的表現、死が間近に見える、時間が足りない、アリスの悔しさ、アリスの哀しみの逆喩的表現であると捉えたほうが良いのかも知れません。

 

 そして

「情熱がほとばしり出て、文句をいう調子がより少なければいい」と思うほど、アリスは自分自身の観察眼、鋭い観察眼と深い思考力を持った者だけが味わう世の中の理不尽 、矛盾、不平等等々の悪徳に対する怒りに対して、すこしばかり辟易して、疲弊し始めているのかも知れません。

 

1892年 ケンジントン

「2月2日

 この長くかけてゆっくりと死んでいくというのは、確かに教訓的ではあるが、がっかりさせられるほどに、興奮と関りがない。

『自然さ』が極限にまで達している。」

(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)

 

 あまり美的とは思えなかったので、

 かつてココに引用するのをやめた

 “アリスの日記”の一部を書き記しておかなければならないようです。

 

1891年 ケンジントン

「油断ならない悪魔モルヒネは、痛みは殺すが眠りを損ない、あらゆる忌まわしい神経性の苦痛をもたらすものだが、二、三週間前、その邪悪さをついに私たちに見せつけた。」

(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)
 

 アリスの病が何であれ、

 死期に近づきつつある者の常として

 モルヒネとの縁は切っても切れないようです。

 

 しかしながら、モルヒネはご存知のように麻薬性の薬物の代表みたいなものですから、痛みは抑えてくれても、その前後に襲う精神の浮き沈み、つまりは極度の躁鬱に加えた虚無感・空虚感、そこには空寂虚無という喪失的極限状態の精神の落ち込みが見られるようです。

 

 つらそうです。

 なんとも記しようもないほど、

 アリスが哀れであり、つらそうなのです。