罪もない人々が戦争で殺される。
平和な国の男たちは、
コロナ蔓延防止も守れずに
罪もない女性子どもたちを死に追いやる。
戦争で命を落とす勇敢な男もいれば、
コロナ蔓延防止も守れない
衆愚な男たちもいます。
ウクライナの映像を見るたびに、
ウクライナの若い男たちと
日本の若い男たちの違いが、
単に状況の違いだけにあるとも
思えなくなってしまう場合もあるのかも知れません。
1891年 ケンジントン
「4月26日
私たち5人は決定的に愚かしい小さな家で馬鹿みたいに幸せにしている。
皆を結ぶ鎖の輪が少ないから、ここまで辿り着くのは容易いように見えるが、それぞれの輪が忍耐という容赦のない鍛冶屋により鍛えられなければならなかった。」
(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)
僕の部屋にも一時期、
数名の女性たちが
同居してくれていた時期がありました。
僕と彼女たちを結ぶ鎖の輪は少なく、
お互い利害が
一致したりしなかったりという関係ではなかったので、
末永く共に皆で暮らせるかと思っていましたが、それぞれの忍耐が足らなかったのか、別の彼氏ができてそちらに移動していったり、実家に帰ったり、別の世界へと巣だったりした女性もいたので、結局、幸か不幸か、彼女たちとの同居はそう長く続いたわけでもなかったようなのです。
しかしながら、
現代社会で生きていくためには、
「忍耐という容赦のない鍛冶屋により鍛え上げられなければならない」ことは確かなことであるようにも思われます。
「誰の基準もいいかげんにされることはなく、私の場合、まるでそれが権利であるかのようにキャサリンを巻き込むことを気にする良心をなくすため、少しばかり悪い人間にならなければならなかった。」
(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)
たとえ数人といえども
社会、集団生活である。
理想に近い集団生活または共同生活としては、
誰の基準もいいかげんにされることのない、
しかしながら誰かが誰かに気を配るためには誰かが少しばかり悪い人間を演じなくてはならない時もあるのだということのようです。
“コト”が何かに気を取られ、
“コト”が何かの思考に囚われながらも
何かの作業をしている時などは、
僕は“ハルカ”に
「ハルカ、“コト”の〇〇をしてあげなよ」などと命令しなくてはならないときもあるのです。
人に命令して気持ちのいい人などいるわけもなく、
僕も人に命令するのは好きではないので、
この時の僕は
「少しばかり悪い人間になったつもり」になっていたのだと思われます。
「それからもう少しお金を得る必要もあった。
それはかわいそうな年老いた従兄ヘンリー・ワイコフの悲劇的な人生が終わったことで都合よく手に入ったのだけど、泥棒が入ることを絶えず恐れなければならないのではと心配していたが、いまだ本当に怯えさせられたことはない。」
(「アリス・ジェイムズの日記」アリス・ジェイムズ)
金持ちもほどほどにしなければ、
身分不相応の金を手にしてしまえば、
あとはそれを奪われる心配だけの生活を余儀なくされるくらいの覚悟が必要になって来るのかも知れません。
なのでほどほど、“善い塩梅”、“適当な加減”が重要な世渡りの技術となってくるのかとも考えられるのです。
ほどほど、善い塩梅、適当な加減 ≒ 中庸
「モンテーニュ『中庸』」