あと1か月、春が来れば、
コロナにも寒さにもが光が見えてくる
可能性もゼロではないのかも知れません。
「我々が見るものはすべて、また別のようでもありえた。
およそ我々が記述し得るものはすべて、また別のようでもありえたのである。
ものにはア・プリオリな秩序は存在しない。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
ア・プリオリ、
元の素または源の因子的なものは、
あるいは“アタリマエ”な秩序も“アタリマエ”な情動も、
つまりはア・プリオリな物事などは存在しないということなのでしょうか。
我々が見る者は、おサルさんの眼から見れば、
まったく別のものに見えているのかもしれないし、
我々が「見ている」と思い上がっているものも、
超人賢者から見れば、まったく見えていないということになるようなものもあるのかも知れません。
「ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見て取られる。
独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実存が残される。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
独我論は実在論と一致する。
“私”が認識し得る世界が
“私”にとって“実存”する世界であって、
“私”が認識し得ない世界は“私”にとっては実在しない。
“我”が“独立”されたかたちで論理立てられる唯物論が独我論であり、それが
“我”が“私”の認識する元素原子的実在の根本であるとする実在論と一致するのだということをウィトゲンシュタインは主張したかったのかも知れません。
「それゆえ、哲学において、自我について心理学的にではなく論じうる意味が、たしかにある。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
哲学者のいけないところは、
なんでも小難しくしてしまうこと。
この部分も、
「自我については、
心理学で、だけではなく、
哲学でも、論じることができる」
とでも言ってしまったほうが解り易かったようにも思われなくもないのです。
「自我は、『世界は私の世界である』ということを通して、哲学に入り込む。
哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の心でもない。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
哲学が扱う自我は形而上学的自我、
哲学で言うところの自我には、
もちろん人間の身体も心も含まれてはいるけど、
ウィトゲンシュタインは、「哲学は心理学とは違い、もっと広大で深淵な、そして崇高な思考、つまりは形而上学的思考によって、自我というものを解明していくのだ」とでも言いたいのかも知れません。
心理学と哲学、
難しい選別であると考えます。
融合してしまえばそれでも良い、とも思われなくもないのです。
エスとイドなどという、
超自我とただの自我。
超自我は本当の自我ではなく、社会とか道徳に合わせようとして形成された後付けの自我のようなもの、と理解して頂ければ楽ちんであると思われます。
「超自我は、
自我に敵対するときにのみ、明確な姿をとる」
(「自我と防衛」アンナ・フロイト)
「シモーヌ・ヴェイユ」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534122649.html