その死亡診断書は、死因が曖昧であった。
死因が肺結核なのか拒食症なのか、その点がハッキリしない。
言わずと知れたフロイトの娘にして有能な心理学者アンナ・フロイトは、この診断書を診て、シモーヌ・ヴェイユの心理的複雑さに興味を示しました。
アンナはヴェイユの死について、
「ヴェイユは、キリストが十字架の犠牲になることで、その死によって、多くの人の不幸が救われたとされているように、ヴェイユもまた、自分の死が無意味なものにならず多くの人に何かを与えることを願っていたのかも知れない。」と述べています。
この分析は、アンナの得意分野である自我という命題に沿って、論説されたものであるような気もしないでもないのです。
己を神聖化したい、あるいは己が清く正しく美しい者でありたいという超自我。
それに反して己をアタリマエに現実的にアタリマエのイッチョマエの人間として認めてもらいたいというタダの自我。
超自我と自我との対立は、シェークスピアの作品の中でも頻繁に扱われているようにも思われます。
ハムレットのオフィーリアに対する態度の根底にも、実はハムレット自身の内部にあるこの超自我と自我との対立があったようです。
「弱き者よ 汝の名は 女なり(欲望に弱い者、おまえの名前を女という)」
(シェークスピア「ハムレット」)
「空前のエゴ男?…ハムレット」
ヴェイユの中の、自分は清く正しく美しく神々しいほどに麗々しいという超自我が、ヴェイユの現実の人生と敵対し始めたとき、彼女の中の神々しさ、神聖化が爆裂したのかも知れません。
「超自我は、自我に敵対するときにのみ、明確な姿をとる」
(アンナ・フロイト「自我と防衛」)
「『あまちゃん』能年玲奈 vs アンナ・フロイト」
同じ時代に同じように自立して生きた女性二人。
心理学者と哲学者として名をはせた二人の女性に学べることは、我々にとって楽ちんで有意義を手に入れることができるような気もしないでもないのです。
挙句の果てにヴェイユはデカルトとアランにも師事している。
二人の哲人から学んだヴェイユの叡智も、我々にとってはおいしい知識の一つになるようにも思われなくもないのです。
デカルト ⇒ 「オカルト・デカルト・アラカルト」
アラン ⇒ 「アラン 1」
「国家のため!国民の皆様のため!」などと連呼している政治家の本質とは、
「祖国愛はたんなる権力への愛を覆い隠す偽善である。」
(ヴェイユ「祖国に関する諸考察」)
小さな幸せに気付きたいとき、ちょっとはマシな気分になりたいときには、
「精神的にも肉体的にもボロボロの生活に慣れた時に、自分で自分に奴隷の烙印を押し、バスに乗れることすら喜びを感じるようになった。」
(ヴェイユ「工場日記」)
ヴェイユは机上だけの学者ではありません。自ら工場勤務や清掃員等々、ブルーカラー体験をすることで、己の考察の正当性を確認していたようです。
そしてヴェイユ自身の指針、志としては、
「信念を持って生きること。知識を信じて、考える姿勢と貫くこと。」
(ヴェイユ「抑圧と自由」)
また、ちょっと手厳しく、個人的には活用したくない啓示としては、
「その苦しみがわれわれを低めるのではなく、実はわれわれの本当の姿をはっきり思いしらせてくれるのだ。」
(シモーヌ・ヴェイユ「愛と死のパンセ」)
そして最後に、僕が最も気に入っているヴェイユの視点は、
「純粋さとは、汚れをじっと見つめる力である。」
(シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」)
「シモーヌ・ヴェイユとパスカル『パンセ』」
汚れなき人は、己の純粋性を見つめる機会を失ってしまうのかも知れません。
僕のように汚れまくっている人間こそ、己の純粋性をじっと見つめる機会に恵まれているような気もしないでもないのです。