羽生結弦くん さすがです。素晴らしい。
ただ、
おバカなオンボロじじぃは、よけいなことに、
いまさらながらに、
羽生結弦くんでさえ、眉毛の濃さが
加齢には逆らえないということにも
感慨深さを覚えてしまっていたのでした。
「命題は本質的な側面と偶然的な側面をもつ。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
たとえば、
「東京に住んでいる人1万人にアンケート、
“東京で最も住みやすい街といえば?”」
などというデータをよく見かけます。
しかしながら、この場合も、
そもそも「東京に住んでいる人」が
本当に「東京」を知っているのかどうか、
「東京で最も住みやすい街」を特定するには、
少なくとも2~3世代以上東京居住経験のある人々でなければ、「東京で最も住みやすい街」という命題に本質的に答えられるとは考えられません。
2~3世代以上東京に住んでいる人、
「真の“江戸っ子”」などと称せる人は
年々少なくなっているのでしょうけど、
すくなくとも「東京」という命題を扱うのなら、それを扱う側も、それに応える側も、最低でも2~3世代以上東京在住でなければ、本質的意味も解も得られないと思われます。
もちろん、
本質的な命題と解を求めていないのなら、
似非“東京人”を名乗る人々の命題と解という偶然的な、何の意味もなさないような側面的命題と解が存在することは、けっして問題にされるようなことでもないのかとも考えられなくもないのかも知れないような気もしないでもないのです。
「思考とは有意味な命題である。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
現在の東京のように、
ぽっと出ばかりが住むような東京に、
ぽっと出に東京の何が考えられるというのでしょうか、
ぽっと出の思考に有意味な東京論的命題を語らせる意味が、いったいどこにあるのか、分かる人はわかるのでしょうけど、わからぬ者はどこまでいってもアタリマエに解るはずもないような気もしないでもないのです。
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
ぽっと出の人の言語は、
御本人は気付かなくても、
“真の東京人”からすると、なんだか可笑しなナマリが混ざった言語のように聞こえる場合もないとも言いきれない時もないとも限らないとも考えられる場合があるのかも知れないような気もしないでもないとも思われなくもないのです。
ぽっと出の集まりであった江戸から、
何百年も経過して初めて
現代の東京が出現した。
そこへまたぽっと出が、次から次へと、まるで湧いて出てきたような、新たな東京論、東京スタイル、東京ファッションを築き上げるのは、本質的な東京を似非スタイル、似非ファッションで覆い包んでしまうような暴挙であるような気もしないでもないのです。
「思考とは有意味な命題である。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
「命題の総体が言語である。」
(「論理哲学論考」ウィトゲンシュタイン)
似非東京人が選出する吉祥寺とか
下北沢は、昭和においては
「ちょっと前までは畠ばかりであった」となり、
成城を得意げに謳い上げている「成城石井」なども、
昭和の人間から見れば、
「成城なんぞは、ちょっと前までは大根畑だらけでお百姓さんばかりがすむ地域であった」ということになるようです。