「私はさんざん一元論、原理主義を批判していますが、ある意味で神様っていいな、と思うこともあるのです。
それは、『結局神の思し召しだから、人間の力ではどうにもならないことだから、仕方がない』と考えることには役に立つからです。」
(「死の壁」養老孟子)
神の摂理≒自然の摂理≒世界の摂理
≒生きし生かされし者の摂理・倫理≒哲学だと信じているので、
「結局、なるようにしかならないのだから仕方がない」
「人間の力、人類のスキルなんて結局そんなものなのだ」と考えて、己の心の平安を保つことにしています。
「人事にせよ、死にせよ、いずれも『なかったことにする』ことは出来ません。死は回復不能です。一度殺したハエを生き返らせることは出来ません。
だから人を殺してはいけないし、安易に自殺してはいけない。安楽死をはじめ、死に関することを簡単に考えないほうがよい。」
(「死の壁」養老孟子)
すべての事を
深く深く真剣に
考えて考えて考え抜いて、
それでもわからぬことは「神のみぞ知る」ということで、
納得するように努めて生きれば、自殺することも人の命を粗末に扱うことも、ましてや他者の尊厳を脅かすような所業、他者の存在を無視するかのようなマナー違反、ルール違反等々も、人として行うことなど到底できぬようにも思われます。
「しかし、原則で言えば、人生のあらゆる行為に回復不能な面はあるのです。死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられないというだけのことです。」
(「死の壁」養老孟子)
死に物狂いで生きる、
死に物狂いで一生懸命に
真剣に真面目に命がけで生きるということはそういうことなのだと思います。
しかし現実には
死が目の前に迫っていなければ、
この死に物狂いの一生懸命さ、純粋にして可憐な努力を積み重ねて生きるということを忘れている、あるいはそんなことも考えもしない生き方をしている人が多いようです。
だからこそチャンスが拡がっている。
一生懸命な人が少なく、真面目に賢明に取り組む人が少ないからこそ、一生懸命、真面目に賢明に取り組み続ける努力をしただけで、すぐに結果が現れ、低レベルの人々との差異を示すことも可能となっているのかも知れません。
「ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。
今日という日は明日には無くなるのですから。」
(「死の壁」養老孟子)
明日にはない今日
今という時間の大切さ
自分の時間の一瞬を
歩きスマホに費やしてしまう人の人生はどんなに薄弱なものになってしまうのでしょう。
歩く時間も無駄にしない哲学者
歩く瞬間も哲学する賢者もいたというのに・・・。
「私はこれまで自分の生き方を定めるためにこそ、何度も、そして長い時間をかけて生きる目的を模索してきた。」
(「孤独な散歩者の夢想」ジャン=ジャック・ルソー)
「ジャン=ジャック 14」
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