「死という考えが私を以前ほど悲しませないのは、
これとは少し異なる理由からである。
死とは、世界における不在、である。
そして私が諦めの気持ちをもって甘受できなかったのはこの不在ということであったのだ。」
(「老い」シモーヌ・ド・ボーヴォワール)
衆愚なるこの世界に
自分が不在となるからといって、悲しむべくもない。
面白くもないメンツの飲み会に
自分が参加できなかったからと言って、残念がる人もいない。
己の人生は自分なりに素晴らしきものであったと思われるけど、
今現在の世界を俯瞰して見れば、それ以上に素晴らしきものなど
見出せるとも思われないのです。
なので現世界において自分が不在となる
=自分自身の死という状況についても、なんら未練も悲しみも
覚えることはないとも考えられるのです。
そして最後には潔さを重んじ、死を自然なものとして、
心易く受け入れるべきであるとも思われなくもないのです。
当コラムは、過激であるが優しくあり、斜に構えた視点であるが
正直に、真実・真理に迫りたいとも考えています。
「一定数の年月の後で人間の肉体が退化を被ることは
経験的・普遍的事実である。この推移は不可避なのだ。」
(「老い」シモーヌ・ド・ボーヴォワール)
科学が、医学が、美容学が、どれだけ進化しようが、
加齢を誤魔化すとか引き延ばすことは人間として傲慢になっているということなのかも知れません。
「また、生命に関する悲観主義または、ストア哲学等々においては、加齢と老いに安住する者もいる。
すなわち、生命への意思が不幸の源泉であると洞察すれば、それよりは半死の状態を良しとすることは理の当然であろう。」
(「老い」シモーヌ・ド・ボーヴォワール)
我々は加齢と老いを美しく潔く受け入れられるために、
哲学しゼノンを学び、モンテーニュを考察してきたようなものであるとも思われます。
「ゼノンの言葉はまるで神託のようである。
『徳は善く生きるため、ただ自らをもって足れりとすることができる』と言うのだ。」───(「善と悪の究極」キケロ)───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
「君は今まで生きて来たではないか?
それだけで立派なのである。君は生活のために毎日の作務を行い、その行いによって今日まで生きてきたのではないのか?それだけで十分、君は立派だといえよう。」
(「エセー」モンテーニュ)
「ゼノン 20」
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