「哲学者の研究の外部で活動する哲学的な組織がないとすれば、それは、その当時の時代と場所のより広い知性的及び文化的な要求に応じるものがなければならない。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
我が国は常に欧米の後を追っている。
当時のアメリカも現代の日本同様、哲学的知性及び文化的
思考探求の必要性に応えるべき場所は少なかったようです。
が、欧米では日本よりいち早く哲学的思考の重要性に気付き、
あらゆる文化文明・科学医学法学等々の基礎となるべく哲学的
思考法に応える場所とか組織を創りつつあるようです。
我々もここまでスピノザからニーチェまで共に学んできたので
カントのいう「哲学の樹」すなわち根本に哲学という樹木ありき
その枝葉に花に果実にあらゆる文化文明・科学医学法学等々の
知識と経験を育むべきが、人類の未来のとっての、ベストとは
云わずしてもベターであることに寸分の狂いもないようです。
哲学なき医学は、いや哲学なきすべての知識学問は幼児が初めて
何かを習得した時の状態と変わらないと申し上げても、誰にも
叱られる筋合いもないとも思われなくもないのかも知れません。
「我々アメリカ人が通常そこに身を置くところの経験の中心にあって、今ここで何かを為すのに、活動性や発展性を見い出せる哲学を欲した時に、プラグマティズムは冒険好きで粗削りなアメリカ的生活に特に適していた。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
我々日本人にとっても、今ここに身を置き経験したことから、
何かを為すべき時には何もプラグマティズムでなくとも、
カントでもニーチェでも或いはモンテーニュでも、何らかの
哲学的思考法は身に付けておくできであるのかも知れません。
「いつかできることは、すべて今日にでもできる。」
(「エセー『モラリスト』モンテーニュ」
「モンテーニュ」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534121008.html
「ヘンリー・ジェイムズを英国へ追いやったアメリカ的生活の活発で性急な何かあるものが、彼の兄ウィリアム・ジェイムズによって哲学に仕立て上げられたのである。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
後に全世界で著作集が出版されるほどの大作家となった
ヘンリー・ジェイムズという弟がいたからこそ、
兄ウィリアム・ジェイムズがプラグマティズムの代表とされる
ほどの大哲学者になれたのかも知れませんね。
「ジェイムズは、思想家を堅固な精神の者と柔和な精神の者に二分する。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
思想家に限らず、ジェイムズに限らず、物事を、人を初めに
二分化してしまうという手法そのものの正誤はわかりません。
が、弁証法的三段論法にしろ何にしろ、思考・論理の始めに
仮定としての二分化という手法は正であるようにも思われます。
なぜなら、思考・論理を始めるにも何にしても、初めに何かの
仮説あるいは分極化・区別化という手法が最も有効であると
思われなくもないからなのです。
物事をただ漠然と結果・結論だけを求めて思考錯誤・論理推理
したところで、たいした思考・論理が組み立てられるとは
限らない。
プラグマティズムの真髄を理解するうえでも、まずは最初の一歩
ジェイムズのように物事を・思想家そのものの二分化から始める
ことで、一歩一歩その理解とプラグマティズム自体の真相・
有効性の取得または獲得へと、我々を導いてくれるような
気もしないでもないのです。