「道徳判断は事実の歪曲である。道徳判断を下す事は、進化の末期に生じる自然現象であり、あらゆる文化的な完成と自己訓練にとって必要不可欠なものである。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
そもそもに我々の道徳基準は我々の経験と知識の上に
成り立っているものとも思われます。
なので我々の経験と知識、品性と清廉潔白が稚拙なものであれば
我々の道徳判断も稚拙なものになっている、ということに
なるような気もしないでもないのです。
「しかしそれは、善と悪が世界における客観的な力であることを想定せずに、そして我々が一種の第二清浄を達成することで善・悪を越えて成長できる。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
我々の善悪の概念が我々の世界における客観的力の影響を
受けているということを認識し、それを想定から外し、
そして我々が我々独自の「一種の第二清浄」を達成することで、
我々人類も規制の善悪を越えて成長できる
ということなのかも知れませんネ。
「つまり、いまだ道徳主義的な文化によって汚染されず、ゆがめられない世界観をもった子供によって象徴される再生によって説明されうる現象なのである。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
結局のところ、我々の世界観・自然観・科学・医学・道徳等々に
汚染されていない、純粋無垢な子供の視点によって象徴される
純粋無垢なる概念こそが見直されるべき、あるいは探求研究
されるべき新たなる知と学問と理性の誕生を可能にする
ということのようにも強く思われなくもないのです。
「ニーチェの非道徳主義哲学は、新しい価値の創造のために必要な前提条件であるとニーチェは考えていた。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
我々は我々に合った我々の道徳、つまりは既存の概念に汚染
されぬ新たなる我々独自の知性・理性・倫理観を持ち、現代社会
における非道徳、つまりは神聖にして真正なる我々独自の
新たなる価値と正義と道徳を創造すべきであると
ニーチェは考えていたようですね。
「その価値とは、何らかの見せかけの理想の名における実存的なものに対する無駄な反抗に代わる実存性を常に伴った価値である。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
国家とか政府とか、見せかけの理想の名の下における実存、
あるいはそれに対抗する見せかけの反抗ではなく、
あくまでも我々は実存性を伴った価値観を常に探求・共有
すべきであるのかも知れません。
「法の古い一覧表は取り払われて、新しい価値の新しい一覧表が立てられなければならない。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
現存の法は、過去の愚者=カネと権力の亡者にとって都合の良い
ように作られたものにすぎない。
そのようなマヤカシの法と秩序ではなく、我々独自の知性と理性
が生み出す新しい価値の一覧表を創作するべき時期に
さしかかっている、あるいは差し迫って来ていると考えるのが
妥当であるような気もしないでもないのです。
「知識そのものが、おそらくそれの最も高度な形態における力への意思である。
『汚れなき認知』や権力誇示の気苦労と無縁の知識は存在しない。」
(「6人の世俗哲学者たち」ルイス・ホワイト・ベック)
二者択一のようですね。
我々は権力誇示とは無縁で、「汚れなき認知」のための
知識欲を保持すると信じたいものではあります。