レオナルド・ダ・ヴィンチ9 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

「レオナルドは『絵画論』の中で、画家たる者は自ら出向いて直接自然を体験しなければならない、と説く。」

(「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯──飛翔する精神の軌跡」

チャールズ・ニコル)

 

ここで注意しなければならないのは、ダ・ヴィンチが「画家」として扱うものは「人間」あるいは「哲学者」として、我々は読み取らなければならない、ということなのかも知れません。

というのもダ・ヴィンチは『アトランティコ手稿』の中で、「画家=哲学者」と記していることから、我々は、ダ・ヴィンチが述べることは画家を扱っているようで実は人間そのものあるいは哲学者をも包括して述べている、として扱うべきであるとも思われなくもないのです。

なので「人間は体験なしに発言・表現してはならない」ということであるような気もしないでもないのです。

 

「レオナルドいわく『君は街の中にある自分の家を発ち、家族とも友人とも離れ、山を越え谷を越えて、自然の中に分け入って行かなければならない。』

(「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯──飛翔する精神の軌跡」

チャールズ・ニコル)

 

人間である以上あるいは哲学者と成るためには、実家を「発ち、家族とも友人とも離れ、社会が如何に幾多の困難と苦境に満ちているかを、自らそこに「分け入って行かなければならない」ということのようです。

男同士から観ても、より早い時期に家を出た者あるいはそもそも実家と呼べるものがない者と、卒業してからようやく社会に出る者あるいはいつまでも実家に居座っている者とでは、その人間スキル、根性、性根が明らかになってしまっているようにも感じています。

 

「君は自らを太陽の過酷な熱にさらさなければならない。」

(「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯──飛翔する精神の軌跡」

チャールズ・ニコル)

 

人間は「自らを」社会という過酷な欲望と情熱の環境に「さらさなければならない」ということのようです。

そうでないと、人生の重み、人間の情感等々、人間スキルを体得することは難しいようにも考えられます。

 

「もし画家が、他の画家の作品の詩的な描写を借りてきて、全てを受け売りで描くならば、ずっと容易いことだろう。そうすれば君もこの画家のように、いつも涼しい場所にいて、動き回ったり病気の危険を冒すこともないわけだから、ずっと便利で楽に過ごせるであろう、が・・・・」

(「レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯──飛翔する精神の軌跡」

チャールズ・ニコル))