「アリストテレスの言っていることは難しいことではありません。私たちが物事の原因を考える場合に、『なぜ』という問いを発し、ある答えが得られても、さらに『なぜ』を問い、これを問い続けられる限りにおいて問い続け、最終的に得られたものが、原理・原因と成り得るということです。」
(「哲学の話」パク・イルゴン)
なぜ?が思いつかなくなくほどまで考え抜き
しばらく時間がたって、改めて考えなおしても、
尚且つ、その結果に「なぜ?」が思いつかなくなった時から、初めて知恵が始まるということなのかも知れません。
が、そもそもに、この、
なぜ? を思わぬ感じぬ考えぬ人が増え続けているのが
現状であるようにも思われなくもないのです。
そこに諸悪の原因・原理が存在し、
醜悪なる社会へと向かい続ける原因・原理も繰り返されて
いるような気もしないでもないのです。
「知恵とは原理・原因を知っていること、原理・原因を見極める知識だということです。
哲学とは、そのような知識を求めることだということになります。」
(「哲学の話」パク・イルゴン)
物事の原理・原因を知るためには、経験と知識、
多くの場面での経験と多くの分野での学問的知識が
必須となるように思われます。
そのためには社会の裏表を幾多も経験し、
あらゆる学問的知識を得るための学術的読書も豊富に
体現しなくてはならぬとも考えられます。
それらが劣っているにも関わらず、知った風なくちをきく男が
増え続けているというのが我々の社会であると結論づけても
けっしてやぶさかではないのかも知れません。
「不思議に思うこと、驚くこと、困惑すること、これが哲学の発端であり、こうした事態の原因は何かと言えば、人間の『無知』にあると、ソクラテス、プラトン、アリストテレスは共通した見解を示しています。」
(「哲学の話」パク・イルゴン)
僕の人生は傍から見れば、
「波乱万丈、好き放題の生き方をしているくせに恵まれている」
と評価されてしまっているようです。
たしかに波乱万丈、好き放題ではありますが、
文武両道、仕事に関しては誰にも叱られることはあり得ない
ほどには切磋琢磨してきたつもりです。
が、そのような僕でも悩みはある。悲しみも痛みもある。
が、それを他者に気付かれるようでは、自分が許せなくなる。
そこで己の内部での葛藤、哲学が始まったのかも知れません。
そして自分の無知を知に変えることができるのは知的探究心、
経験と学術的知識であるということくらいしか思い浮かばなかったので、今なおバカのように、強迫観念のように猛読を続けているようにも思われなくもないのです。
「要するに、哲学は人生の問題だけでなく、広く自然世界、あらゆる学問にまで及んでいるものであると考えられるのです。」
(「哲学の話」パク・イルゴン)