「さらにまた自然学的な理由によっても多くの神々が誕生した。
豊穣の神、恵みの神、雨の神、天の神、地の神、海の神、山の神等々がそれである。
しかしながらこれらは一つ間違えれば愚者によって迷信と混同されるので、ゼノンはこれら自然学的な神々も星や月、年月年間の変化にも、ロゴス(言葉と調和法則)と真実真理、論理摂理の理性を司る神の力の表象であると説明している。」
───(「神々の本性」キケロ)───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
神とは、宇宙の摂理、自然の法則であり、言葉と理性、
論理と真理を司る象徴的な存在であって良いのかも知れません。
それを主だとかイエスだとかアラーだとかと固定特定して
言い出すものだから世の中おかしくなる。
その先に宗教、民族、国家を巻き込んだ戦争まで
引き起こしてしまう人間の愚かさには驚異的なものまで
感じてしまうような気もしないでもないのです。
「しかも彼らは、摂理が実存であることを証明して確信した。
これはゼノンが『神託は事実としての予言として成立している』と述べたことに起因するものなのであろう。」
───(「ギリシャ哲学者列伝」ディオゲネス)───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
ディオゲネスもゼノンも、アリストテレスもソクラテスも
神託を起源として哲学しているようです。
そしてなんと現在もデルフォイのアポロン神殿には、
くっきりとその神託が残されているという事実が
畏ろしくも神々しく思われるのです。
「それにしても『自分自身を知れ』と各人に忠告することは、大きな影響をもたらすものであるにちがいない。
その証拠に、知識と光の神アポロン(ゼウスの息子)は、デルフォイ神殿の正面にこの言葉を掲げ、そこに忠告のすべてが含まれているとしていたではないか。」
───(「エセー」モンテーニュ)───
「ジャン=ジャック・ルソー 21」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12529414766.html
アポロン神殿の神託にはもう一つ、
「己の分をわきまえよ───限度をわきまえよ」とあるのも
なんだか神々しい予言であるような気もしないでもないのです。
「ストア派哲学者たちは後に哲学を論理学的分野とその他の分野をさらに細分化して区別してしまうのだが、その祖であるゼノンは『言葉は論理であり、論理は言葉による』としたうえで、その哲学を論理学部門と自然摂理の部門の二つに分けただけであった。
しかしながら、より事実、真実、真理を広範にわたって探求し見極めるためには、ゼノンの区別によるところのほうが正しく思われる。」
───(「ギリシャ哲学者列伝」ディオゲネス)───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
現代科学も細分化され過ぎて真相真理を見失っているようです。
医療は基本中の基本であるヒポクラテスの論理を見失い、
国家は民の幸福と安寧を蔑ろにし、
ITは利便性と論理倫理の理性品性とのバランスを見失って
しまっているようにも思われなくもないのです。
「初めに言葉ありき」で、
言葉が論理理性を司るということであるのに、
近年では医療も政治もITもほとんどすべての分野の人々が、
言葉を学ばず、知も学ばず、美徳も知らぬ化け物の如くに
生存しているような気もしないでもないのです。
「このような理由でゼノンは、自然本性と調和しつつ生きることが幸福という目的を達成できる唯一無二の方法であるとしたのである。
これは品性と善、正義と他者への配慮という『徳』に従って生きるということにほかならない。
なぜなら、我々を徳へと導くのは自然本性だからである。
我々の自然本性は万有の自然本性の一部なのである。
だから自然本性に従って生きることは目的となり、幸福へと繫がり、自分の自然本性と万有の自然本性の調和に従って生きることが人間の使命とも成り得るのである。
自然本性の法が禁止していることは何一つ行ってはならない。
我々の自然本性と万有の自然本性に共通している法則とはすべてに行きわたる正しいロゴス(言葉と論理の調和的理性法則)であり、存在するものすべての支配を司っているゼウスの法則であり、これに従うことが神に仕えることと同一となるのである。
この一致に従うことこそ幸福な者の徳であり、幸福な者となることでもあるのだ。」
───「ギリシャ哲学者列伝」ディオゲネス───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)