「ではゼノンの言うことを聞いてみよう。
時として私も徳を夢見てしまうことがあるからだ。
『最高善は自然本性に一致して生きることである』
とゼノンは言う。ということは我々が獣のような仕方で生きなければならないということだ。人間にあってはならないことのすべてが獣には認めれる。
すなわち欲望を追及し、恐れ、騙し、待ち伏せし、殺し、そしてなにより問題なのは神などは知らぬふりをして生きるということだ。」
───(「信仰提要」ラクタンティウス)───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
いつの世にも、どこにでもいるのだろうけど、ラクタンティウス
のように、ゼノンを理解したつもりで実はまったく読み込みが
足らぬゆえの浅はかなる誤解曲解であるようです。
が、彼の理解が単純に自然本性であることは事実。
獣のように生きたならスグに殺されてしまうような弱虫泣虫男が
カネと地位と、立場と権力で、理不尽な情動、無神経な行動、
無礼極まる所作を平気で行使しても、咎められることもなく、
かといって張り倒してしまえばこちらが罪人となる。
そのような社会よりはラクタンティウスの誤解釈のように、
獣の如く男は戦える社会であるほうが嬉しい。
が、そこに理性と正義と美徳がなければならぬ、というのが
ゼノンを祖をするストア派の主張でもあるような気も
しないでもないとも思われなくもないのです。
「自然本性との一致のうちに送られる立派な生、つまりは徳にしたがって生きることが目的である、とストア派の発案者であるゼノンは究極の善を探求したのである。」
───(「アカデミカ前書」キケロ)───
同じものを見ても聞いても人それぞれの解釈がある
ということなのかも知れませんね。
が、正は一つで十分。ラクタンティウスのような人の言葉が
広く伝播されぬことを祈るばかりなのであります。
「エピクトスは『善意についての正しい認識を持つためにはあまりに多くの準備と労苦、学習が必要なのですね?』と困惑して尋ねた者に、『君は最大の知をわずかな努力で手に入れようとするのか?』と逆に問い質し叱責した。
エピクトスは、さらに『とはいえ多くの哲学者の言葉の中で、肝心な言葉はごく短いものである。このことが知りたければ、ゼノンを読んでみるが良い』と言い、さらにゼノンの言葉では、『目的は神々に従うことであり、善の本質は表象を然るべき仕方で用いることである』という短い言葉で教えている。
エピクトスは、『そこで神は何か、表象とは?、また部分の自然本性とは何で全体の自然本性とは何か?などと聞き返すから、これはもう長くなるのだ』と述べた。」
───(「エピクトス語録」アリアノス)───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)
哲学は小難しいものではなく、人としてアタリマエのことを
単純な論理で解き明かしたものであるとも思われます。
「哲学とは死を考察して、自由に生きるための学問である」
───(「エセー」モンテーニュ)───
「モンテーニュ───フランス男40歳の呟き」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-11864859609.html
人間が考えるべきは良く生きることと死。
それだけで善いという単純な教えであるのかも知れません。
「いったい『では、どこから始めようか』などと呑気なことを言っている場合ではない。
アリストテレスもプラトンも、そしてソクラテスもゼノンも、『幸福を構成する要素は自然本性とか自然本性に従うこと』という彼らの共通した点の認識から始めたのではなかったか?」
───(「共通観念について」プルタルコス)───
(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)