僕にも似たような感覚の記憶があります。
「人のフリ見て我がフリ直せ」ということわざを
実感させられることは多いようです。
知り合いの女性からは
「節制したのに体重が落ちない」
「席を譲ってあげたのに何のリアクションもなかった」
などという不平不満を聞かされることもあるようです。
が、それらは
僕にも似たような感覚の記憶もあるようなのです。
「君はまだ心から人間を愛しているのではなく、善事を行うことがまだ絶対的に君を悦ばすわけではないのだ。
君はまだ単に義務としてこれを行うにすぎないのであって、自分自身に施す恩恵として行ってはいないのだ。」
(「自省録」マルクス・アウレリウス)
席を譲るという行為は
相手のリアクションを期待して行われるべき情動ではない。
席を譲るという情動は、間違いなく善行であるとも思われます。
が、それは己自身が善行を行うことにより、心の安らぎ、平安、
清々しい気持ちを得るための、自分自身が自分自身へ施す
恩恵として行うべきであるということであるようです。
マインドフルネス、美徳の効能の一種であるとも
考えられるようにも思われます。
「節制したのに体重が落ちない」という不満も、
節制という善行を己が己に施したという喜びだけを味わうべきで
その結果に拘ってしまえば節制は善行ではなく計らい事と
なってしまうようにも思われなくもないのです。
「指導理性は自ら要求を出さない限り、それ自身においては、何ものをも必要としないのである。
したがって、自己を煩わしたり束縛せぬ限り、何ものにも煩わされることはなく、何ものにも束縛されることもない。」
(「自省録」マルクス・アウレリウス)
指導理性は、他者が何をしようと何を言おうと
煩わされたり束縛されたりすることはない。
が、イデア、アカデメイアの根本理念である
食欲、睡眠欲、性欲に限っては、
指導理性誕生以前の人間の本能的生存真理でもあるので、
指導理性自体が自ら要求を出す出さない以前の
問題でもあるようにも思われなくもない。
が、それらの事柄についても指導理性を用いるならば、
それらを調整制御し、煩わしさとか、それらに拘る
己の心の束縛から解放されることも可能である
ということのような気もしないでもないのです。
「顔の表情に怒りの色の表れている者は、ひどく自然に反することで、それがしばしば見られる時には、美徳は死んで行き、ついにはまったく再燃も不可能なほどに消滅してしまう。
これは理性に反することであるとの結論を、その事実そのものから引き出して見よ!
我々の過ちに対する自覚がなくなったら、それ以上生きている価値があろうか。」
(「自省録」マルクス・アウレリウス)
街中を歩いていても無表情を露わにしている者、
怒りの表情にも似た表情で歩いている者、
顎を引かずに顎を上げて歩く者等々は多いようです。
己の表情が他者への不快につながることを
己の不徳、己の過ちとして自覚せぬ者は、
他者を思いやるという自然の理、人間の理性にも
反する行為であるとも思われなくもないのです。
が、アウレリウスはここでは、それらの者に対しては、
「生きている価値」のない者として断じているようです。
「どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることができると、わたしたちの両手も心も喜びでいっぱいになるのだ。」
(「曙光」ニーチェ)
「美知武習録185(ニーチェ)」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12044375170.html
「喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。
喜び、嬉しがって生きよう。」
(「ツァラトゥストラはかく語りき」ニーチェ)
「無双無想の極意」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12243128109.html