アウレリウスの独り言 39 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

僕にも似たような感覚の記憶があります。

 

「人のフリ見て我がフリ直せ」ということわざを

実感させられることは多いようです。

 

知り合いの女性からは

「節制したのに体重が落ちない」

「席を譲ってあげたのに何のリアクションもなかった」

などという不平不満を聞かされることもあるようです。

 

が、それらは

僕にも似たような感覚の記憶もあるようなのです。

 

「君はまだ心から人間を愛しているのではなく、善事を行うことがまだ絶対的に君を悦ばすわけではないのだ。

 君はまだ単に義務としてこれを行うにすぎないのであって、自分自身に施す恩恵として行ってはいないのだ。」

(「自省録」マルクス・アウレリウス)

 

席を譲るという行為は

相手のリアクションを期待して行われるべき情動ではない。

 

席を譲るという情動は、間違いなく善行であるとも思われます。

が、それは己自身が善行を行うことにより、心の安らぎ、平安、

 

清々しい気持ちを得るための、自分自身が自分自身へ施す

恩恵として行うべきであるということであるようです。

 

マインドフルネス、美徳の効能の一種であるとも

考えられるようにも思われます。

 

「節制したのに体重が落ちない」という不満も、

節制という善行を己が己に施したという喜びだけを味わうべきで

その結果に拘ってしまえば節制は善行ではなく計らい事と

なってしまうようにも思われなくもないのです。

 

「指導理性は自ら要求を出さない限り、それ自身においては、何ものをも必要としないのである。

 したがって、自己を煩わしたり束縛せぬ限り、何ものにも煩わされることはなく、何ものにも束縛されることもない。」

 

(「自省録」マルクス・アウレリウス)

 

指導理性は、他者が何をしようと何を言おうと

煩わされたり束縛されたりすることはない。

 

が、イデア、アカデメイアの根本理念である

食欲、睡眠欲、性欲に限っては、

指導理性誕生以前の人間の本能的生存真理でもあるので、

 

指導理性自体が自ら要求を出す出さない以前の

問題でもあるようにも思われなくもない。

 

が、それらの事柄についても指導理性を用いるならば、

それらを調整制御し、煩わしさとか、それらに拘る

己の心の束縛から解放されることも可能である

ということのような気もしないでもないのです。

 

「顔の表情に怒りの色の表れている者は、ひどく自然に反することで、それがしばしば見られる時には、美徳は死んで行き、ついにはまったく再燃も不可能なほどに消滅してしまう。

 これは理性に反することであるとの結論を、その事実そのものから引き出して見よ!

 我々の過ちに対する自覚がなくなったら、それ以上生きている価値があろうか。」

(「自省録」マルクス・アウレリウス)

 

街中を歩いていても無表情を露わにしている者、

怒りの表情にも似た表情で歩いている者、

顎を引かずに顎を上げて歩く者等々は多いようです。

 

己の表情が他者への不快につながることを

己の不徳、己の過ちとして自覚せぬ者は、

他者を思いやるという自然の理、人間の理性にも

反する行為であるとも思われなくもないのです。

 

が、アウレリウスはここでは、それらの者に対しては、

「生きている価値」のない者として断じているようです。

 

「どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることができると、わたしたちの両手も心も喜びでいっぱいになるのだ。」

(「曙光」ニーチェ)

 

「美知武習録185(ニーチェ)」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12044375170.html

 

「喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。

喜び、嬉しがって生きよう。」

(「ツァラトゥストラはかく語りき」ニーチェ)

 

「無双無想の極意」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12243128109.html