「もし君が人生において次のものよりも善いことを見出すならば、
──正義、真理、節制、雄々しさ、要するに君の心がまっすぐな理性にかなったことをさせてくれるごとに自分自身に対して覚える満足──
さよう、もし以上のことよりも君が何か善いものを発見できるならば、君の見つけた最善のものを享受するがよい。」
(「自省録」マルクス・アウレリウス)
善いことを見出すもなにも、現代では正義、真理、雄々しさ
──現代の男は、雄々しさに関しても、その言葉さえ死語としてしまっている──
などについて、真剣に、苦悩し、探求し、苦悶しながらも、それを果敢に追い求める心さえ失われているような気もしないでもないのです。
なので、アウレリウスは、愚か者に対しては、
君たちが善いと思うものを享受して見ればいい、と、
なかば突き放しているようです。
「すべてそのようなものは、たとえしばらくの間は、我々の生活にうまくはまり込むように見えても、突然、我々を打ち負かし、道ならぬところへ我々を連れ去ってしまうものなのだ。」
(「自省録」マルクス・アウレリウス)
IT、ベンチャー等は、たとえしばらくの間は、
我々の生活にうまくはまり込み便利で楽ちんに見えても、
突然、性犯罪、詐欺等々多くの犯罪に結びつき、挙句の果てには
誰もその根本的解決策を見出せないという道ならぬところへ
我々を陥れてしまうのかも知れません。
「君は次のようなことを断じて退けなくてはならぬ。
信を裏切ること、己の節操を放棄すること、憎むこと、疑うこと、呪うこと、偽善者に成り下がること等々。」
(「自省録」マルクス・アウレリウス)
節操を放棄すれば、
どうでもいい相手と付き合うハメに陥る。
相手を選ぶという節操を放棄した途端、
己の人生を放棄してしまったのと同様に、
幸福をも捨て去り、己の己自身たる心魂、真理さえも、
見失ってしまう可能性が高くなってしまうような
気もしないでもないのです。
「なぜならば自分自身の信念と理性、正なる論理、真理にのみ帰依することを何よりもまず選びとった者は、人のまねごとをせず、弱音を吐かず、けっして群れることなく、他者の力は必要とせぬであろう。
なかんずく、君は何ものをも頼らず避けもせずに生きて行くであろう。
自分の心魂が肉体に包まれている期間が長かろうと、短かろうと、君にとっては少しもかまわない。
そうなれば、もう今すぐにも去って行かなくてはならないとしても、自身の真理と信念に行いうる他のことの場合と同じように、潔く去っていくことができるであろう。
一生を通じて君の唯一の念願は、自分の真理と信念という思いがいかなる場合にも論理が正であり、自分に相応しくないことのないように、というこの一事なのである。」
(「自省録」マルクス・アウレリウス)
が、忘れてはいけない、ようにも思われます。
愛と性、知と美徳なくして何の真理であるのか。
「性欲ほど激しい欲望はないのに、われわれは女性だけをこれに抵抗させようとする。」
(モンテーニュ「エセー」)
「女性は世間に認められている掟をこばんだとしても、少しも恥じることはない。
これは男性が女性の同意なしにきめたものだからである。」
(モンテーニュ「エセー」)
「モンテーニュ『享受』」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-11870302731.html
古今東西の哲人の師であるソクラテスとプラトンも「イデア」
つまりは愛と性、知と美徳の結合なくしては何も生まれない
としているようです。
「ディオティマはアフロディティやゼウスの功績を讃え、『愛とは、無知なる者と知恵ある者との結合である』という御神託を伝えている。」
(「ソクラテスの弁明」プラトン)
「レスビアン・マインド」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-11925092263.html